ふるさと厚狭・鴨神社と大内氏の伝説②

7月11日の続き

私の生まれた土地は当時の呼び名では山口県厚狭郡山陽町厚狭鴨庄(かものしょう)であり、いわば鴨庄は厚狭の一部という理解だった。
この辺りの呼称の変遷を昭和36年3月発行の山陽町史資料篇上巻に所載の吉田宰判沿革一覧から順次見ていくと、

厚狭郡の内として、
・慶長15年検地帳ー鴨庄
寛永2年検地帳ー鴨庄
享保13年地下上申ー鴨庄村
天保12年風土注進案ー厚狭村
・明治12年町村制ー鴨庄村と厚狭村に区分け
・明治22年市町村制ー厚西村(郡村区域を合併編入)
・大正7年町に改称ー厚狭町(昭和4年出合村を編入)
・昭和31年合併ー山陽町(埴生町と合併)
更に平成17年小野田市と合併し山陽小野田市となり現在に至る。

この経過を見て明らかなように古来厚狭と鴨庄はほぼ同じエリアを指していたと考えられる。
その由来は寛治4年(1090)厚狭庄公田(こうでん)30町歩を御供田(ごくでん)として京 加茂(鴨)社に寄進された事に始まると考えられ、すなわち鴨庄である。
その目的は租税の軽減にあると推定される。

この経過から見ると厚狭の町筋の北西、真樹山に鎮座する鴨神社は厚狭の鎮守社と言ってもよい存在と思える。
厚狭在住の従姉妹に撮って貰った現在の鴨神社参道と社殿

鴨神社の沿革は、江戸時代元文~安永年にかけて長州藩内の社寺の明細を上申させた「寺社由来」及び天保12年藩内各宰判の民情を報告させた「風土注進案」に伝説も交えて自己申告されているが、その中の主な内容を年代順に整理すると以下のようになる。

・推古22年(614)ー百済聖明王妃が第3子琳聖太子を追って、梶浦(厚狭川河口の地名)に着き厚狭川をさかのぼって沓(くつ・現在もある集落の名前)に仮殿を営んだ。
延暦7年(778)聖明王妃を祀った祠が山口の大内氏に願い出て造られた。
・大同3年(808)白鴨2羽が飛来した奇瑞を元に大内氏が京都上下鴨神社の勧請を願い勅許有り、社殿を造立。
・建久7年(1196)鴨神社を厚狭の河東(現在加藤)に移
す。
・応永2年(1395)大内氏第10代義弘の時代京都より奉幣使が下り後小松院御真筆勅額が掲げられ関西33州の鎮守と定められた。
・応仁元年(1467)鴨神社が全焼し古記録等焼失
・明応5年(1496)大内氏第15代義興が鴨神社を仮造営する。
・万治3年(1660)厚狭宿全体が南へ移動、これにともない鴨神社が現在地に遷される。

全体に大内氏の影響が色濃く出ていることが分かる。
元々周防国(すおうのくに・山口県東部)を地盤とする大内氏が、長門国(長門の国・山口県西部)や厚狭郡に影響力を及ぼし始めるのは、長門が地盤の厚東氏が正平23年(1368)頃に滅亡して後の事であり、これ以前の厚狭周辺のことに大内氏の話が頻繁に出てくるのはやはり何らかの意図を感じる。

前回のブログに大内義弘が朝鮮に交易の使節を派遣したのが応永6年(1399)と書いたが、その直前の応永2年に京を巻き込んで少し大袈裟に、いわば神社の由緒を飾っているのがやはり気になる。

先に書いた通り寛治4年(1090)厚狭の公田が京の鴨社に寄進され荘園となったことが鴨庄の名前の起こりとすると厚狭鴨神社もこの時期あたりで京からこの地に勧請されたと素直に見るのが正しいように思われる。

以上の事から厚狭鴨神社が百済聖明王妃に由来するという説には種々の無理があり、大内氏やその周辺が作ったストーリーとの見方にはうなずけるものがある。

◎「歩き」で出会ったこれはアサガオの仲間だろうか。