ふるさと厚狭・鴨庄(かものしょう)②

2月5日の続き

私のふるさと・厚狭鴨庄について下鴨神社資料館館長の方からご教示頂いた内容の整理要約は以下の通り。

・古代厚狭郡の地名の通り先ず厚狭があり「あずさ」「あづさ」と呼ばれていたが徐々に通称であった「あさ」に転化する。一帯は公田であり厚狭荘であった。

・寛治4年(1090)堀河天皇白河上皇の時代、朝廷より賀茂上下両社に対して宣下(せんげ・天皇の命令書の交付)が発せられて両社より朝廷に御饌(みけ・お供えされる神様への食事)が供されることになった。

・この諸費用が両社が持つ荘園のみでは賄えなくなるため、朝廷が所領する土地から両社へ荘園と御厨(みくりや・神饌を供給する土地)が寄進された。

・寛治4年7月13日に下鴨神社分として全国の荘園19箇所、御厨9箇所の寄進が確認出来、その中に長門国(ながとのくに・山口県)厚狭庄 公田30町 の記録がある。

・これらの寄進に依って御日供料(おにっくりょう・毎日お供えされる神饌の費用)のみでなく境内の維持、式年遷宮等の諸費用も賄われることになった。

・厚狭の鴨神社は大内氏成立の歴史や厚狭地区の歴史とも交錯しているが、その成立は京都・下鴨神社との繋がりを示すものである。
現在の厚狭鴨神社

・15世紀後半、一帯を治めた戦国大名大内政弘~義興の時代には下鴨神社の荘園としての厚狭荘(鴨荘)は役割を終えたと考えられ、その頃大内氏重臣・杉氏が支配した史料がみえる。
(杉氏の墓が一基、鴨庄の円応寺にある)

◎これ等を整理すると先ず「厚狭」があり、寄進に伴い下鴨神社の通称である「鴨社」から厚狭地区のなかに「鴨荘」が成立、「鴨庄」に変遷したと考えられる。
厚狭の鴨神社のことを私の両親は確かに「鴨社」と呼んでいた記憶がある。

◎子供の頃から抱えていたふるさとの疑問が、懇切な回答のお陰でこの歳になって解消出来とても嬉しい。

◎これはアルストロメリアのような気がするが時期が違うようにも思われる。