山陽町史⑤厚狭の庄(荘)園

今まで書いて来たように「大化の改新」以来、国は「班田収授の法」などを通じ公地公民化を進めたが、6年ごとに土地は収公され戸籍により農地が再分配されるために期限が近づくと農地が荒廃したり、人口の増加に対して公田が不足するような事態に直面した。

この為、国は養老7年(723)開墾した場合三代の子孫までその私有を許す「三世一身法(さんぜいっしんのほう)」、天平15年(743)一定の条件のもとで開墾した土地の永世私有を認める「墾田永世私財法(こんでんえいせいしざいのほう)」を打ち出した。

元は公田不足に対応するものであったこれらの制度は、結果的に公地公民を原則とする律令制を崩すことになる。墾田が開発者私有の不輸租地(ふゆそち・租税免除)として扱われるようになりこれが庄園の発達を促す。

庄園は大寺社や貴族等が特権を生かして投資造成した私有地でその耕作を在地の人々に請け負わせ、庄官や庄司を任命してその租を収納する。

奈良時代に起こった庄園は平安時代になってもますます増加、地方豪族は自分が開墾した土地を租税を逃れるために寺社貴族に寄進し自らはその庄官となるものも生じた。

庄園はこれらの過程で武士の出現に大きな役割を果たし中世への扉を開くことになる。

ふるさと厚狭には三箇所の庄園があったとされる。

①京都下鴨神社領・厚狭庄(鴨庄・かものしょう)

②京都石清水八幡宮領・津布田庄(つぶたのしょう)

③京都石清水八幡宮領・埴生庄(はぶのしょう)

🔘私の生まれた村・鴨庄に関係する①についてはこのブログで2022年2月9日と2月5日の二回に分けて「ふるさと厚狭・鴨庄(かものしょう)」として庄園に関連することを書いた。

🔘③の埴生庄は海に面した漁村だが古い史料に同じ石清水八幡宮領であった美祢の三庄園(伊佐別府・大美祢・於福)及び津布田庄からの石清水八幡宮への物資の輸送に関して集積地・港の役割を果たしていたことが記録されている。

 

絮(わた)ほぐれ茅花(つばな)流しを待ちかねて

 

🔘健康公園のチガヤ(茅花・ツバナ)は絮(わた)がほぐれて種子が遠くに飛んで行く季節を迎えている。この時期吹く湿った風を「茅花流し」と言うらしい。