6月11日の続き、
日本特有の制度であった天皇を退位した上皇が行う「院政」のあれこれを解き起こす「上皇の日本史」では、史料を読み解いてその政治の内容や判断が比較的お粗末なもので上皇の政治の限界が見えていることを指摘している。
このことを裏付ける反面教師として著者は鎌倉幕府の土地所領争いの文書を紐解き、知的レベルでは貴族に及びもつかない武士達が、基本的なルールを踏まえつつ、個別の事案との関係を論理的に勘案して説得力のある判定と文書の作成が成されていることを示している。
この所領争いのモデルとして古文書の解析が行われているのは源平の合戦を生き抜き「武士の中の武士」と呼ばれた熊谷直実(くまがいなおざね)の子孫・熊谷家の人々である。
私のふるさと山口県厚狭は江戸時代大半が厚狭毛利家の給領地であったが、生まれた村・鴨庄(かものしょう)一円のみはこの熊谷家の給領地でありこのブログでも色々書いてきたが、この「上皇の日本史」で嬉しい再会を果たしたことになる。
鴨庄の熊谷家屋敷跡
武蔵国(むさしのくに・埼玉県)熊谷郷を本領とする直実の孫・熊谷直国は「承久の乱(じょうきゅうのらん)」で鎌倉幕府側に立って奮戦討ち死にし安芸国(あきのくに・広島県)三入荘(みいりのしょう)を恩賞として得た。
一族は本拠の熊谷郷が洪水で荒廃したこともあり、後に三入荘に本拠を移して発展、戦国時代に同国の毛利氏の家臣になり江戸時代~幕末に至る。
争いは熊谷直国の子、直時、資(祐)直(すけなお)兄弟が熊谷郷と三入荘を巡ってのもので、実の母、育ての母、祖父などの証言や証文を踏まえ兄・直時は訴人である弟・資直へ熊谷郷と三入荘の三分の一地頭職を渡す事が決まった。
証言内容、判決内容は論理的に書かれ客観的に見ても妥当な判決のように思える。
(ちなみに私のふるさとを治めたのは安芸熊谷氏の祖といわれる兄・直時の家系である)
歴史に関係した読書では思いがけずにこのような嬉しいご褒美に出逢えることがある。
【紫陽花に雨と日差しが彩(いろ)添えて】
🔘施設の庭の紫陽花