厚狭毛利家⑳初代元康の足跡③

毛利元就八男で厚狭毛利家の祖・毛利元康について色々なことをこの日記に書いてきた。

元康は豊臣秀吉が始めた朝鮮出兵(歴史学では朝鮮侵略戦争と呼ぶことがある)・文禄、慶長の役では一手の将として渡海した。
2021、1、31のこの日記「厚狭毛利家⑱初代元康の足跡①」で触れたように文禄の役で、朝鮮の支援に来襲した明の大軍との激戦「碧蹄館(へきていかん)の戦い」の勝利に貢献し、秀吉から乗馬と感状を受けている。

この朝鮮の役当時、元康は一手の将として自らの部隊を率いていたことは各種の史料から明らかであったが、この度たまたま 光成準治著「中・近世移行期大名領国の研究」校倉書房刊を見ているなかで、元康が率いた麾下(きか)の軍勢の内容が分かる記載を目にすることが出来た。

毛利家の史料「朝鮮国御渡海之時御当家御旗本組人数」により集計されたもの。

慶長の役当時の毛利元康石高20000石
渡海時、組下の有力国人(こくじん:豪族)
吉見氏(石見国:島根県) 15215石
佐波氏(備後国:広島県)  4366石
三吉氏(備後国:広島県)  7454石
熊谷氏(安芸国:広島県)  8487石
赤穴氏(出雲国:島根県)  1668石
天野氏(備中国:岡山県)  7140石

総石高66216石(1000石以下の国人を含む) 軍役人数3311人(100石5人役)

この時期、元康自身の実際の所領石高は23828石であり、元康はその所領分の軍役を申し出たが、当主輝元は元康を一門の重鎮として育成するため無役分(3828石)を例外で設けたと考えられる。

当時の毛利家では朝鮮の役に従軍する兵の充足に困っていた時期に当たる。にもかかわらずその極めて例外に当たる事を毛利輝元は一族の長老・小早川隆景に理解を求めている書状が残されている。

毛利元康は朝鮮の役で中国地方全域から集まった3千人を超える軍勢を指揮していて、中堅クラスの独立大名並み指揮権をもっていた事になる。

後に私のふるさと厚狭鴨庄一円を所領とする事になる熊谷氏も、この時元康の一手に加わっていることが分かる。

この事例や、厚狭図書館に託されている厚狭毛利家史料に残る輝元から元康宛て書状などを見ても、当主輝元の元康に対する信頼は極めて厚い事が分かり、元康の関ヶ原合戦後の早世(この日記2019、5、15分参照)が悔やまれてならない。
◎今日の記事で700回目らしい。
◎我が家の庭で育てているが肝心の名前が分からない。
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