「バラカンが見た村上海賊」

NHKBS1で放送された「バラカンが見た村上海賊」を長い間録画したままにしていたのをようやく再生観終わった。

番組表で見た際は「バラカン」のことが全く意味が分からず「村上海賊」に牽かれて録画しておいたが、バラカンとはロンドン生まれのピーター・バラカン氏のことで、NHKの番組などを通じ日本の文化を世界へ発信する仕事をされており、時折TVで見かけることがある。

この番組はNHKの国際サービス・ワールドJAPANで放送されたものの日本語版放送ということで、中世に瀬戸内海特に現在のしまなみ海道周辺の三島・能島(のしま)、来島(くるしま)、因島(いんのしま)を根拠地にした村上海賊と呼ばれた集団を地域の風土と併せて海外へ発信しようとするものであった。

バラカン氏が現地に出向き、その城跡や海域を訪ね村上海賊が海外との取引をする商人や文化人としての顔をも持ち、瀬戸内水運を関銭(通過料)徴収や水先案内の形で差配していた状況を紹介する。

また本屋大賞受賞の「村上海賊の娘」の作者・和田竜さんにもインタビューして海賊のロマンについても迫っている。

この番組では海外向けということもあり余り触れられることがなかったが、村上海賊は村上水軍とも呼ばれ、ある時期以降私の追跡する毛利氏と切っても切れない関係になっていく。

その大きなきっかけになったのが天文24年(1555)10月毛利元就大内氏に謀叛した陶晴賢を討って中国地方に覇を唱えるターニングポイントとなった「厳島の戦い」で、この際諸説はあるものの大方の見解として三島(能島、来島、因島)村上氏は毛利元就に味方して勝利に貢献した。

その後、織田信長に攻められた大阪石山本願寺への毛利氏からの兵糧支援、毛利輝元徳川家康との対決のために大阪城への入城、秀吉の朝鮮出兵への毛利兵参戦などの歴史の節目で毛利と村上氏との繋がりが顔を出すことになり、毛利水軍とも称されるようになる。

毛利氏が関ヶ原の敗戦で防長二州(現在の山口県)に押し込められた江戸時代、水軍の存続は不可能でその一部が三田尻(みたじり・山口県防府市)を拠点とした・毛利藩船手組として存続し、残りの多くのものが藩に残らず帰農土着したといわれる。

 

【梅雨の日はひとり歩いてもの想い】

 

 

🔘健康公園のシナノキの花