現代のような通信手段が無い古い時代は、煙の上げかたやその色によって通信連絡することは世界各地の共通手段であった。
例えば中国・山東半島に煙台(えんだい・烟台)という地名があるが、この起こりは倭寇(わこう・大陸沿岸を荒らした海賊集団)襲撃の際に警報ののろしをあげる設備が設けられたことによる。
また西部劇映画では北米先住民が白人との戦い開始をのろしを上げて部族仲間に連絡するのはお馴染みのシーンである。
のろしは狼煙、烽火等色々な文字が当てられるが古代は烽燧(とぶひ)と呼んだ。
天智2年(663)百済(くだら)を助けるべく朝鮮半島に出兵した日本(倭国)は唐、新羅(しらぎ)の連合軍に白村江(はくすきのえ)で大敗した。この為天智3年(664)唐、新羅軍の来襲に備え西日本一帯に城(き)を築き、都への連絡手段として烽燧制を敷いた。
厚狭では津布田(つぶた)にある火ノ山がこれに該当し九州からの連絡を下関の火ノ山で受け、津布田火ノ山から小野田竜王山へとつないだ。
この烽燧制は変遷を繰り返すが、寛平5年(893)新羅の入冦、寛仁3年(1019)刀伊(とい・満州族の一派)の入冦、文永11年(1274)と弘安4年(1281)蒙古襲来など外敵侵攻の折りには活用されたと考えられる。
江戸時代、萩・毛利藩も領内各地に狼煙場を設け、藩主の参勤交代、幕府巡検使や朝鮮通信使の発着に伴う応接準備、幕末異国船の到来などの連絡に使われた。
厚狭では旧山陽道に沿った狼煙場として、隣町・船木との境にある西見峠(にしみがたお)と山野井の日ノ峰山(ひのみねさん)がこれに該当した。
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