播磨の豪族・赤松氏と子供の頃の記憶

6月28日のこのブログに、新たに住むことになった兵庫県播磨国にちなんで人物列伝「播磨百人伝」のことを書いたが、この本に載っている人物のなかで鎌倉時代後期から室町時代にかけて日本史に名を遺す赤松氏のことを書いておきたい。

赤松則村(のりむら)
私が初めて赤松の名前を聞いたのは小学校高学年の時、小学校の門前にあった「厚狭図書館」で楠木正成の物語「千早城の旗風(ちはやじょうのはたかぜ)」という子供向けの本を借り出して夢中で読んだ中に「赤松則村」として出てきてからである。ーーー今から60年も前のことながら鮮明な記憶があり吾ながら驚く。

鎌倉時代後期、後醍醐天皇が親政という旗印で幕府打倒を呼び掛けた「建武の中興」では、大阪河内の豪族・楠木正成など各地の豪族が立ち上がった。
その一人が播磨の人・赤松則村で、出家後の名前・円心(えんしん)の方が有名かもしれない。

則村は鎌倉幕府の京の拠点・六波羅(ろくはら)攻めなどに功を挙げ重用されるが後に後醍醐天皇に反旗をひるがえし足利尊氏に従い播磨国守護職に任じられる。
これにより赤松氏は広く播磨に根を張ることになる。

当時既定の秩序に逆らうものたちを「悪党」と呼んだが楠木正成赤松則村もそういうものの先駆けだとする見方がある。

②赤松満祐(みつすけ)

則村の次に日本史上で有名になるのがひ孫に当たる満祐である。
室町幕府第6代将軍足利義教(あしかが よしのり)、先代が後継者を指名しないまま亡くなったため関係者がより集い、くじ引きの結果選ばれた将軍で世に「くじ引き将軍」とも呼ばれる。

義教は将軍権力強化の意図もあり守護家の家督に口出すことが多かったが赤松家もその例外でなく、当主満祐の所領を削って他の一族に与えるような動きを見せた。

これに危機感を感じた満祐は京の自邸に義教を招き家臣を刺客にして首をとった。当時の年号をとって「嘉吉(かきつ)の変」と呼ばれる事件の勃発である。

満祐は自領の播磨に帰り幕府の追討軍を迎えて敗れ自刃、赤松氏は一時断絶することになる。

🔘それにしても波乱万丈な興味をひく播磨の一族の物語でありそれが子供の頃の記憶に繋がっていることが嬉しい。

尚、戦国時代末期播磨三木城の籠城戦に名を残した別所長治など別所氏は赤松氏がルーツである。

山陽道や瀬戸内海運という物流、更に京や畿内すなわち中央権力に近いという地の利も作用して、この地域に深い歴史があるらしいことが分かり少しずつ興味が湧いてくる。

🔘天気のよい日ベランダから大阪湾方向を見ると、朝7時前後に瀬戸内航路で九州から明石海峡を抜けて神戸、大阪へ向かうフェリーと出会える。船腹や煙突に大きく印されたマークで識別出来る、何れも昨日朝撮影。

・さんふらわー号、 神戸に向かう。

・私も利用したことがある名門大洋フェリー、 大阪南港へ向かう。