厚狭毛利家代官所日記㉕ 文久2年⑦開作の犠牲者

厚狭毛利家家臣・長尾増平の事が代官所日記に表れるのは文久2年(1862)3月28日の記録からで、その部分を現代文に直す。
(家臣の石高等を記す分限帳(ぶげんちょう)を調べると長尾家は変遷はあるが中士身分のようである)

『長尾増平を召し捕る為に検使役(けんしやく・事実の見届け役)や勘場役人を彼の家に差し向かわせる事について、人名を指定して指示したところ一応お請けしながら体調不良を理由に断る者が出た。
時間が経過したのでやむを得ず士分2名、足軽2名で出向くことになった。
彼の親類方へ立ち寄り同道して増平宅へ行ったところ、増平はお役所へ行くと言って外出しており不在であった。梶、吉部田(きべた・共に地名)辺りを手分けして尋ねるも行方は知れず空しく出張の面々が役所へ帰ってきた』

3月29日の記録
『同件にて士分3名目明し2名を下関へ行方を尋ねるため派遣する。この者たちから埴生(はぶ・地名)まで行って調べたところ今朝未明に舟を借りて下関へ渡ったとの事で跡を追うとの連絡があった』

その後、長尾増平に関して
・新田(開作)の事については代官所では扱わず別役が詮議して指示を受けて沙汰する。
・百姓・甲四郎と言うものが内通してその逃亡を助けた。
・居宅の所帯道具等を処分する。
・増平の下人(召し使い)が出奔の際、途中まで供をしており取り調べた。
筑前(福岡県)太宰府で弟分と称した者と共に召し捕り、弟分は父親へ引き渡し、本人は遠島処分となった。

等々が日記に逐次記録されている。

山口県山陽町(現在山陽小野田市)教育委員会が編さんした「山陽町史」の沖開作の項には、長尾増平は安政4年(1857)「開作方」に任命されたとある。

この沖開作は文久元年(1861)8月4日高潮で沖土手が決壊、一面海となり翌年4月に関係大地主や庄屋の助力で復旧した。

増平はこの責を問われ萩沖の見島(みしま・当時萩藩罪人の島流しの地・現在見島牛で有名)に3年間の遠島処分となった。
増平はこの間、島で子供達の手習い師匠として暮らしたとの事である。

◎全体を読み込むと、自然災害の責任を今まで永年に渡り奔走した担当者に負わせて、出資者や関係者の不満を押さえようとした上層部の意図が見えてくる。
この事情が分かるため身内(厚狭毛利家家臣や関係者)から捕縛へのサボタージュや逃亡を助ける動きが出ているのだろう。

新田開発・開作という当時の大事業はこのような人の犠牲の上に成り立っていることが良く分かる出来事と言え少々後味が悪い思いがする。

それにしても今も昔も宮仕えには辛さが付き物であり、時代劇にそのまま使えそうなストーリーである。

★「開作」については2023年10月15日及び16日の記事を参考にして下さい。

◎軒先で早くも菜の花が咲いている。もうすぐ春!