厚狭毛利家代官所日記⑤弘化4年①鶴騒動

6月14日の続き

弘化4年(1847)2月7日の厚狭毛利家代官所日記に面白い記述がある。
その内容は概ね以下の通り。

今日、進藤与兵衛は、梶浦(かじうら)漁場の陸側 こしゆらじが浴(えき)という場所で鶴を打ち取られた処、鶴は傷ついて海中に入った。
そこへ埴生浦(はぶうら)漁船と見える2~3艘程が沖の方へ漕出す折柄、その鶴を見掛け船を漕ぎ寄せ傷ついた鶴を取ろうとする様子が見えたため、陸地より大声で呼び掛けるも聞き入れず、聞こえぬふりをして取り上げ沖の方へ漕ぎ出した。

仕方なく進藤与兵衛は代官所に来て申し出、すぐさま埴生浦へ人をやり、人柄が分かり次第詮議するよう申し付けた。

笠井平四郎を遣わした処、直ぐに人柄が分かり地下(じげ・村)役人に申し入れを行った。
その後 埴生浦の浦庄屋(漁村の庄屋)と年寄りが同道して代官所と進藤与兵衛宅に詫びごとを申し入れに来て許されて引き取った。
埴生浦役人は鶴も持参した。

・進藤与兵衛は厚狭毛利家家臣筆頭の家柄で不易(永代)家老である。
弘化4年の翌年・嘉永元年(1848)、山陽町史資料篇に残る分限帳(家臣の身分石高が記載されている)を見ると帳面の筆頭に名があり、高・百十四石八斗九升八合七勺五才 となっている。
また直ぐに埴生浦に走った笠井平四郎は同分限帳をみると、高・一斗とあり中間(ちゅうげん)身分と推定される。

・梶浦漁場は厚狭川の河口域に現在もあり、厚狭毛利家居館にも近く厚狭毛利家の所領内であり、此の辺りで鶴を狙ったようだが、鉄砲を使ったのだろうか?

・埴生浦は概ね萩本藩の蔵入れ地となっていた漁港で梶浦の西隣に当たり私達が子供の頃はここに海水浴に来ていた。
深く考えずに鶴を引き上げた漁民達が、申し入れを受けて村を挙げてあわてふためいたであろう様が目に浮かぶ。
漁民も農民も侍相手ではどうにもならず苦労する。

◎近くの畑で見かけたこれは子供の頃触って遊んだ、確かネコジャラシ?と云っていたような気がする。