四境戦争に対応した長州藩軍政改革と厚狭②

9月23日ブログの続き

桂小五郎(木戸孝允)と村田蔵六(大村益次郎)を中心とする藩政府から慶応元年(1865)6月最初の長州藩軍制改革の令が発せられた。

これは迫り来る幕府の大軍に対抗すべく旧来の軍隊である藩正規軍を解体し西洋式軍隊の体制に近付けるための一大転換の開始であった。

元々戦国時代後半から江戸時代にかけて武士が受ける知行高、例えば知行1000石の侍などと云われるがその知行高に応じて決められた槍、弓、旗などを担当する人数を戦時には自弁で出さなければならない。

従ってこれまでの軍役はあくまで主人と従卒がユニットになって編成されたものである。この場合従卒は主人の指示を聞いてその補助をするだけで軍の指揮官の指令に従っているわけではない。

新制度では知行高1050石未満の諸士は、曲折はあったものの知行高に応じて米納(従軍を要求される人数分の一人当たり5石4斗)しこの納めた米で藩が銃卒を雇い、この銃卒は特定の主人に付き従うことをせず指揮系統の統一された軍として編成されることになった。

厚狭毛利家のような一門家老や高禄の家に関しては慶応元年10月の第二段の改革が発せられた。

このような大身(たいしん)は従来慣例であった100石につき2人という以上の厳しい人数取立てを要求され、銃卒で構成する大隊と砲隊で「一手」を構成することが指示された。

「一手」は士分(厚狭毛利家などの家中の侍・陪臣(ばいしん))、足軽中間、農兵と身分別に分隊して構成され、この辺りはとても西洋式編成とは云えず家臣軍団の延長線上になっている。

この際、士分隊は最新式のライフル(装條)銃、足軽以下の隊は通常の銃の装備が自前で義務づけられた。

この時厚狭毛利家が編成を要求された部隊は次の通りで計169名となる。

・銃隊 149名ー 半大隊(4個小隊)内2小隊が士分、2小隊が足軽中間農兵、

・野戦砲2門(フランス式12ポンド砲)20名

当時の厚狭毛利家公称知行高は6696石、従来の軍制100石2人基準では134人の動員であるがこれを35人も上回り、長州藩危急存亡の時を迎え相当に厳しい動員体制であることがわかる。

🔘朝歩きの公園で照明用ポールにカマキリを見つけた。カマキリは不思議に何時出逢っても臨戦態勢で威嚇するような動作をする。

【子蟷螂(ことうろう)   辛い運命(さだめ)か                                                                               鎌かざし】