禁門の変責任者三家老、福原越後②

〈5月20日の続き〉
関ヶ原戦後の徳川幕藩体制下で周防長門2ヶ国(現在の山口県)となった毛利家では支藩長府、徳山、別家岩国吉川、一門六家(宍戸、右田毛利、厚狭毛利、吉敷毛利、阿川毛利、大野毛利)永代家老二家(福原、益田)の基本体制が確立した。

大坂の陣後、毛利本家当主輝元の後継者秀就の後見を担うことになった長府藩主秀元は寛政の大規模知行地替えを行い、福原家は当時の要地吉敷(現在の山口市周辺)から宇部に移り11300余石、この時の不満が福原家史料に残されているが、この所領で明治を迎えることになる。
この知行地地替えには秀元と福原家との確執が影響していると言われる。

幕末安政5年(1858)藩命で福原家を継いだ、越後元僴(もとたけ)は徳山藩主の六男で兄弟には徳山藩を継いだ元蕃、最後の長州藩毛利元徳、厚狭毛利家に嫁いだ勅子(ときこ)等がいる。

万延元年(1860)より永代家老家として藩主毛利敬親を補佐したが、元治元年(1864)禁門の変に至る上洛軍を、益田、国司両家老と共に率いることになる。3方面に別れた長州軍のうち伏見勢の直接指揮を執るが、市中に入る前に幕府方大垣藩と交戦、銃撃により負傷後退後、帰国する。

戦後責任を問われ岩国で自刃、辞世は「くるしさは 絶ゆるわが身の夕煙 空に立つ名は 捨てがてにする」
〈これは個人的な感想だが、達観した趣のある国司信濃の辞世に比べると、理不尽な罪に問われる無念さが行間に、にじみ出ているような気がする。〉

墓所宇部市小串の宗麟寺にあり、維新後名誉回復、正四位を追贈された。

こうしてみると厚狭周辺で禁門の変で落命した人物が多い事が良くわかるが、反面厚狭毛利は俗論派と見られておりこれ等の対極にあり、この事が以後明治に至るまで厚狭に影を落とすことになる。

ウオーキング途上、工場のフェンスに咲く可愛い花
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