〈8月30日ふるさと厚狭の石炭②の続き〉
昭和の時代に入ると家庭用練炭(れんたん)が普及し始めこれの原料としての需要から昭和7年埴生(はぶ)炭鉱が再開、昭和12年には旧野上炭鉱が生田(いくた)炭鉱として再開した。
日中戦争が始まると石炭は産業エネルギーとして増産要請が高まり昭和13年沖部(おきべ)地区に森木炭鉱が開鉱、その後15年に沖部炭鉱と改名した。
昭和14年厚狭駅の北西、山川地区に厚狭炭鉱が開業した。
厚狭駅から山陽本線に沿って西へ約200mの引き込み線を敷設し、炭鉱からその引き込み線まで空中ケーブルで石炭を運ぶ設備があった。
最盛期には600人近い従業員が働いていたようで、人手を集めるために近県や朝鮮半島まで募集が行われていて、次々に炭鉱傍に社宅が建てられ昭和18年にはその住宅区域に厚狭炭鉱と言う行政区域が設けられた、
戦後の復興期、石炭は必須のエネルギーで戦時中に引き続き厚狭では、厚狭炭鉱、埴生炭鉱、生田炭鉱、沖部炭鉱が採炭に努めていたが、昭和22年には厚狭炭鉱の山陽本線を隔てた南側に南厚狭炭鉱が創業した。
更に28年には梶地区に海底炭鉱の若山炭鉱が開鉱した。
この中で厚狭炭鉱と南厚狭炭鉱は特に坑内出水が多く大雨では水没することもあった。
昭和30年代になるとエネルギー革命で石炭から石油への転換が急速に進み、石炭不況の中政府の政策のもと閉山が始まり、昭和31年の南厚狭炭鉱、厚狭炭鉱に続いて44年までに厚狭の炭鉱全てが閉山を迎えることになった。
私が昭和40年(1965)まで通った厚狭中学校への通学路脇の炭鉱跡地は地図で見ると厚狭炭鉱があった場所で、出水が激しかったと記録にある事を裏付けて、普段から蓮沼状態で雨が降ると通学の回り道を余儀なくされた。
閉山後6年くらい経過して私は炭鉱近くを歩いていた事になるが、其れとは別に幼い頃の微かな記憶のなかに、厚狭駅まで石炭を運ぶ引き込み線と高架の石炭搬送設備の残像がある。
3年前帰省の折りにこの通学路、厚狭炭鉱の跡地へ行ってみたが当時の面影は全く無くなり住宅地になっていた。
石炭は現在、地球温暖化防止の観点などから、諸悪の根源のように云われ日蔭の身だが、大半が輸入の石油に比べ、国産のエネルギーとして長い間日本経済を支える主役を努めて来た。