厚狭毛利家代官所日記⑬嘉永5年①藩米船事故②

9月16日の続き

嘉永5年(1852)2月20日
下津、石川屋弥兵衛・嘉右衛門(佐市郎が改名)去年夏難船に及んだ一件、公儀(萩)より召し捕り、「たまり」に入れられていたがこの度「家戻り」が許された。
その公儀からの沙汰書は以下の通り。(この沙汰書は藩から吉田宰判へ、次に宰判の大庄屋、更に厚狭毛利家領内の下津給庄屋へと渡される形式になっている)

給庄屋・河口甚五衛門組 万神丸船頭 嘉右衛門

去る5月吉田宰判の大阪運送米を積み登り安治川口で難船に及んだ節、取り扱いに不審があり「たまり」に入れて調べた処、
米780俵、他に運賃として28俵を積み受けた。
上乗り(荷物の管理役)千右衛門、船子(水夫)共に5人乗組出帆、6月4日大阪川口に着いて汐待をしていたところ、にわかに風波が強くなり船が沈む勢いになったので、上乗りの指図を受け、運賃米も含んで凡そ半分ばかり捨ててしまった。

その後風波が和らぎ船子を遣って川口の船宿・木地屋三右衛門方へ連絡、三右衛門他1名が上荷船(大型船から積み換える小型船)で来た。
最前米を捨てる際あわてて混雑しており運賃米の内18俵が残っていることがわかった。これは相済まないことと三右衛門へ相談したところで、両人立ち会いで荷船に積み込んだ。

その後沖師(港の管理人?)四郞兵衛が来て運賃米の事を尋ねたのでありのままを答えたところ、船に乗り込み残米を見分して積み取った。
それから上荷船に積み込んだ運賃米を引き取り受け取った。

船子の賃米その他を支払い残8俵は帰りの飯用とした。
また15俵の拝借米を仰せ付けられたのでその内11俵を売り、残り4俵を沖師賃米その他に支払い、これ以外は取り扱いは無い。

先の運賃米取り扱いについては自分と三右衛門以外は知らないことを方々申し出た。

難船に遭った際は運賃米を残らず捨てた上で御米に取り掛かる筈であり、あわてて混雑し残米がある場合はそのままにして見分を待つべきところ、その事もなく三右衛門と申し合いして取り扱ったことで不審を蒙り厄害になったことは、御咎めを仰せ付けられても申し開きできない誤りである。

依ってお咎めの噂も有ったが、数ヶ月「たまり」へ入れ置いたことなので熟慮の上「家戻り」を仰せ付ける。
尤も今後大坂運送米の積み方は差し止めとする。

以上の通り沙汰する。

同日(2月20日)、前段の次第について御内輪(うちわ・厚狭毛利家)からも咎(とが)方を仰せ付けられるとして以下の沙汰が追加で下されている。

船頭・嘉右衛門
閉戸(へいこ・門戸を閉じて家にこもり他出を禁じる処分)
父親・弥兵衛
嘉右衛門と同様のお咎めを仰せ付ける筈のところ当節病気とのことで追って沙汰する。
(別の記事に3月9日より閉戸、23日に許しが出ている)

◎江戸時代、船の難破難船事故は多くまたこの事を悪用した犯罪もあったようである。その為積み荷に対するルールが有り、特に今回の事故では藩の米であることから厳重な取調べがあった事が分かる。

今回の事故も積み荷を捨てざるを得ない場合は自分の持ち分から先に捨てるというルールを逸脱しているが、もし沙汰書に有るように見分が終わるまでそのまま現場の状況が保存されておれば、ここまで大きな問題にはならなかったと推測される。

ニリンソウではなさそうだが2つの対で咲いている小さい花