厚狭毛利家代官所日記⑩嘉永4年(1851)①捨て子のたらい回し

8月9日の続き

厚狭毛利家給領地内の民政を書き記した代官所日記には幕末近くになると「捨て子」に関する記述が増え、当時の世相を著しく反映したものになっている。

この中で捨て子が「たらい回し」された事件があり、その経過を日記の記載順に、分かる範囲で現代文でフォローしてみる。

『10月2日
・畔頭(くろかしら・村役人で庄屋に次ぐ役職)弥三郎に退役を申し付けた。
当年春、弥三郎方へ捨て子があった事を隠し、その子を更に捨てたと聞いたためそのように申し付けた。
・捨て子の件について弥三郎を詮議(せんぎ)したところ白状した。このことは公辺(藩の宰判の事と思われる)にも聞こえ、目明かしが調べた事と詮議したことで次のように「覚」として書き留めた。

※4月に入った頃、船木小野村の神代謙蔵様方へ男子1人が捨てられた。乳が無いので聞き合わせしたところ山中市(いち)の助五郎と吉蔵が云うには川棚村に宜しいところがあるとの事で銀250目(匁?)を添えて両人へ子供を渡した。

※両人はその後申し合わせて荒瀧村の太衛門の処へ捨てた。

※太衛門も乳がなく河内村の政右衛門に相談し、麦を少々渡して得心したうえで貰ってもらった。

※政右衛門方でも困って、貰い受けた男子に生まれと名前を書き付けて弥三郎方へ捨てた。

※弥三郎も郡村の給庄屋杉山弥兵衛方へ捨てた。

※杉山弥兵衛は石丸橋の亀吉に心付けを渡し男子を委ねた。

10月2日
弥三郎を取り敢えず他行差し止め(他所への出歩き禁止)として百姓組内で気を付けるよう沙汰した。

10月26日
弥三郎が杉山弥兵衛方へ捨て子をするに当たって、同村の太吉という者に頼んで同行したことが分かり太吉について追込(おいこみ・牢などに入れて出入りを禁じる)処分を沙汰した。

10月29日
船木宰判の代官より「弥三郎を詮議するので百姓組に番を申し付けた事を承知ありたい」との書状が厚狭毛利家に到来した。

11月4日
太吉の追込処分を解いた。

11月14日
杉山弥兵衛と亀松が吉田宰判代官所に呼び出しがあり、捨て子の件について尋ねられ書付けを差し出した、その内容は
※弥兵衛方では事情があり対応出来ず弟とも相談、山川村の亀松が受けてくれるとの事で米3俵と着物を添えて渡した。

※亀松の言い分も弥兵衛の申す通りで、家内と共に念を入れて養育しておりこの節は健やかに育っているとの事。
(当初名前の出た亀吉ではなく亀松らしい)

12月28日
厚狭毛利家代官から船木宰判代官宛書面、
百姓弥三郎は捨て子の件で張紙閉戸(出入り禁止、家屋内で謹慎)となっていたが、年越しの時期であり格別の計らいで閉戸を免じ百姓組のお預けとして身柄を慎む様にさせたく御許し願いたい。』

○弥三郎、太吉、弥兵衛、亀松以外は厚狭毛利領外の者達で記載が無いが、藩の機構を通じて必要な処分が有ったと思われる。

○捨て子が当たり前に有る時節柄か、当時の行政機構ではかなり厳しくこの問題を取り上げていたようである。

○弥三郎も弥兵衛も厚狭毛利家領内の村役人で、同じく家に捨て子を捨てられたがこの時の処置の良し悪しが明暗を分けている。

○この事件の子供は取り敢えず亀松宅で健やかに育っているようで少しホッとするが、このたらい回しの実態を見ると不幸に終わった子供も当時は多かったと思われる。

◎路地に顔を出すこの少し変わった植物は図鑑を見るとセトクレアセアと云うらしい。