代官所日記のまえがき・藩の港 下津(しもず)

厚狭毛利家領内の下津は字の通り厚狭川下流の河口域にあり、古代は板垣の津とも呼ばれた古くからの港である。

瀬戸内海から梶浦(かじうら)、渡場(わたしば)を通過して下津まで船が入り、また江戸時代には厚狭川の上流・美祢四郎ヶ原(しろうがはら)から下津まで通船があった。

従って地域の物資集積、積み出し港として重要な役割を果たしており萩・毛利藩の港の位置付けで米蔵も備えており
大坂や萩へ年貢米(藩米)や物資の積み出しが行われていた。

萩毛利家が領内各地域の民情を報告させた「防長風土注進案」の下津の項には
「船持ち数軒あり、廻船より上荷働き(船から船への積み替え)するもの、水夫稼ぎあるいは沖仲仕(港での荷物の積み降ろし)をして渡世するものがいる。
廻船13艘、60石~90石積み2艘、270石積み1艘、河口上荷船(沖の大型船から荷物を積み降ろしする船)8艘、300石積み1艘、950石積み1艘」
となっている。
☆1石は約150Kg 従って950石積みは143トンの米や荷物が輸送できいわゆる千石船と考えられる。

藩にとって重要な港の為、吉田宰判代官が管轄する川口番所や見張り役人の為の長屋等もあり賑わっていたようである。

当時萩・毛利藩では年貢として徴収した藩米を、大坂中之島の堂島米市場(2020年7月16日のこのブログに記事を書いた)に程近い、豪商・淀屋常安由来の常安橋(じょうあんばし)たもとにあった毛利藩大坂蔵屋敷に運んで売りさばいていたようで、厚狭毛利家代官所日記に記されている下津から大坂への藩米運送時のトラブル案件について、このまえがき内容をベースに次回に書くことにします。

このトラブルに遭遇した船は積み荷の量から見ると上記「防長風土注進案」に記載の300石積み船ではないかと思われる。

今から約170年前に、厚狭・下津から出帆した船が瀬戸内海をはるばる航海し、大坂へ到着してトラブルに遭遇した古い記録を読んでみて、厚狭で生まれて現在大阪に住む私はいささかの感慨を覚えている。

◎これはハルジオン?ヒメジョオン?それともペラペラヨメナ?、図鑑を見ると似た種類が多い。
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