厚狭毛利家代官所日記⑫嘉永4年(1851)③藩米船の事故①

厚狭毛利家給領地内の民政に関わる日記、藩米運搬船の大坂での難船事故に関連した記述を現代文で表す。
尚、この事のまえがきとして昨日9月15日のこのブログに背景を書いている。

嘉永4年10月6日、7日
下津の佐市郎の事、この夏御米を積み大坂登りの節、悪しき事があったが、当節三田尻(みたじり・現在防府市域で藩の重要な港があった)に於いて召し捕らわれ萩(毛利藩の城下)へ引かれて行ったとの風評があり、父親へ尋ねたところ次の通り申し出た。

・申し上げ事項(厚狭毛利家代官所算用方への報告)
過ぎた6月に大坂へ御運送米を積んで登り掛、難船した一件について(佐市郎は)相済ませて帰って来ました。
然し8月末私がよそへ行って留守の節に、佐市郎は下関へ行くと家内に行って出掛けました。

大坂へ行っていないかと案じていたところ9月30日三田尻の飛脚を以て、大坂での次第を半紙15枚くらいに行きがかりを書いて送って来ました。

私も見ましたが文面も甚だ分からないので、人を一人萩に送ったところ「たまり」に入れられていることが分かりました。
この他のことは分からずご迷惑をお掛けしている事大変恐れ入りますと共にお届け申し上げます。
10月5日 杉山弥兵衛(佐市郎の父親)

☆「たまり」とは江戸時代に奉行所等に出頭した者を留めおいた場所で、牢屋程では無いものの劣悪な条件下にあった。

11月6日
船頭・弥兵衛の世倅(よせがれ・長男)佐市郎は公儀(萩藩)より召し捕られたので次男・友吉を他出差し止め処分にしておいたところ以下の願い出があった。

・御願い申し上げる事(厚狭毛利家代官所宛て)
私について先達てよりお聞き込み趣から、他出してはならないとの事恐れ入っております。
然し家内に多人数、その上船子の者数多く雇い入れており、多日に渡って船仕事が出来ない為渡世に差し障り難渋しております。
何卒格別のご配慮で三田尻までの船仕事を差し許して頂くよう偏に御願い申し上げます。
11月 友吉

前書の通りの願い出について三田尻への船仕事は許可する。他国行きについては差し止めのままとして沙汰する。

☆当時は罪を問われると家族にまで累が及ぶのが当然とされていたことが分かる。

事故の詳細が分かる藩の沙汰書については時系列と字数の関係で次回に書く事にします。

◎歩きの道端に咲いている野草
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