6月1日のこのブログの続き
天保6年(1835)の日記を読んでいくと、時おりTV時代劇のエピソードに使えそうな事柄が記されている。
その例を挙げると、
①浪人の領外退去 5月7日の日記の要約
筑後国(現在福岡県)浪人の刀屋(とや?)清兵衛と申すもの、近来は船木(ふなき・厚狭毛利領)に住んで人別帳にも記載がある。
身持ちが悪いと聞こえていたが、そのうえ先日吉野屋右平と申す者方に賊が入った時も紛らわしい事があった。
詮議の上御領内からの退出を仰せ付ける。
ーーー筑後と言えば久留米の有馬領内、または柳川の立花領内から流れてきた浪人と思われるが、やはり浪人生活は苦しく、身を持ち崩すような事が多いのだろう。
②旅人の行き倒れ 10月22日の日記の要約
石丸橋(いしまる集落に有る橋)近辺の下津組(しもづ地域の百姓組)が引き受けている往還端(道端)で旅人が病死したと届けられた。
いつもの通り本藩の吉田宰判所に連絡した処、今日吉田から役人が見分に出張して来て問屋利左衛門宅で食事を出した。
勿論往還筋での行き倒れの事なので内輪(厚狭毛利内)での詮議はしない。
ーーーこの時代、旅人の行き倒れは多かったようで、世話をする往還沿いのものにとっては少し迷惑な役目であり、この事の管轄は萩の本藩であったようである。
③村役人の汚職 11月24日の日記の要約
池田半左衛門(船木銭ヶ原の庄屋と思われる)はその役目のなかで私欲と見られる事があった。
村の会計決算の寄合で米四斗余りの間違いである。
尤もこれだけであったら退役という程の事ではないが、旧悪があることも聞こえており、お役取り揚げの上追込を申し付ける。
(尚この追込処分は5日間で御免の沙汰が後日出ている)
ーーーこの他にも年貢の銭納に当たり、その換算率を通じて不正を働き、追込処分と米の返納を命ぜられた別の庄屋の例も書かれており、少々情けない話だが中間層の私欲不正はかなりあり得る事なのだろう。これが過ぎると百姓一揆につながる。
意外に仕置きが軽いようにも思うのだが。
◎川の端に自生しているねぎ坊主のようなこれは何だろう?