司馬遼太郎さんの大作「街道をゆく」の第六巻に「芸備の道」がある。ここでの芸備とは旧国名の安芸国(あきのくに)と備後国(びんごのくに)を指し現在の広島県に当たる。
そのなかで司馬さんは毛利元就を生んだ高田郡吉田町(現在安芸高田市)へ向かうのだが、近辺に幕末の長州の志士の姓が幾つもあることを以前から調べ、そういう地名の在所を出来るだけ通って行こうとする。
・桂ーー桂小五郎(木戸孝允、維新の三傑)、桂太郎(軍人政治家日露戦争時首相)
・山県ーー山県有朋(明治陸軍を創始、首相) など
元来広島県・安芸を本拠地(本貫地)とした毛利氏は一時期中国10ヶ国を領有したあと当主・輝元がこの地の家臣団のほとんど全てを引き連れ防長二州・山口県に移った。
以下「芸備の道」から転載
『(輝元は)「ついて来なくてもいい」ということを幾度もいったようだが、みなきかなかったといわれる。上級者は何分の一かに家禄をへらされて萩へ移ったが、下級者には知行も扶持ももらえない者が多かった。そういう者は農民になり、山野を開墾した。』
『幕末、長州藩が階級・身分をこえて結束がつよかったのは、江戸期に百姓身分であった者も先祖は安芸の毛利家の家来であったという意識があり、それが共有されていたためにちがいない。』
🔘ここでは毛利家の本拠地・安芸国が強調されているが実際には中国地方の各地から防長二州への人の移動があった。
例えば禁門の変で切腹したもう一人の家老・益田右衛門介や藩政改革を主導した周布政之助は石見国(いわみのくに・島根県)の出自であり、一時期厚狭を領して長府毛利家に仕えた三澤氏は出雲国(いずものくに・島根県)の出自である。また瀬戸内を支配した水軍の一部も船手組として長州藩に残った。
私は長州藩の明治維新はいわば中国地方の血が凝縮して成し遂げた維新だと思っている。
🔘一日一句
強面(こわもて)の空蝉(うつせみ)縋る小枝揺れ
🔘介護棟の庭、小さくて珍しいタイワンホトトギス