山口県地方史学会創立70周年記念大会聴講と史跡訪問など⑤亀山公園山頂広場

帰りの新幹線の時間を見計らい、同級生に連れて来て貰ったのが山口市亀山公園山頂広場、山といっても小高い丘のようでもある。登ってみると360度の眺望で防長二州の中心が見渡せ、地形や地勢からこれは城跡ではないかと思わせた。

山頂への途中の紅葉

帰宅して山口市の案内などを調べると、「毛利秀元長山城(当時の地名)として築城しようとしたが途中で断念した」とある。思い当たる節があり長府藩祖・毛利秀元を更に追跡して以下のことがわかった。

毛利宗家を継いだ毛利輝元(毛利元就嫡孫)には当初子がなく、幼少より英明を謳われた元就4男元清の子・秀元が輝元の後継者として指名され養子となった。

その後輝元に実子が誕生、秀元は身を引くことになり時の権力者・秀吉の指示もあり別家を立てることになった。紆余曲折のうえ慶長4年(1599)当時の毛利の所領120万石のなかから周防吉敷郡(現在の山口市の大部分)を含む17.8万石が秀元の所領とされた。

これを受けて秀元は現在の亀山公園の地に本拠として長山城の築城を開始する。しかし程なく慶長5年(1600)関ヶ原合戦が勃発、敗戦に終わり長山城築城は幻となった。

🔘歌碑、少し見にくいが御製と刻まれていたので帰宅して調べてみると昭和天皇終戦直後昭和21年の「歌会始」で「松上雪」のお題で詠まれたものとわかった。昭和21年という時を考えると、刻まれた歌の意味が迫ってくる。

ふりつもるみゆきにたへていろかへぬ

松ぞ雄々しき人もかくあれ

🔘山頂広場にあるフランシスコ・ザビエル像 、 ポルトガル人で日本に初めてキリスト教をもたらした。当時の領主で戦国大名大内氏の庇護で山口でも布教活動を行った。

山頂から見るザビエル記念聖堂

🔘山頂広場にある幕末の萩藩主・毛利敬親

有能な家臣を登用し長州を倒幕維新へと導いたが、政争のなかで矛盾した色々な提言に耳を傾け、それぞれを「そうせい」と許容し結果として犠牲者も出たため蔭で「そうせい公」とも呼ばれ、評価が分かれる。

 

🔘今日の一句

 

千里旅終えて水鳥羽繕い

山口行きの記事は今日で一旦終ります。