司馬遼太郎さんの随筆⑦播州の国

司馬遼太郎全集に収録されている随筆のなかに、昭和41年の「日本読書新聞」に掲載されたという「播州の国」という短いエッセイが収録されている。

よく知られているように司馬さんの家は数代前まで播磨国(はりまのくに・兵庫県)に住んで居られたそうで、記憶を振り返るとこの事は何度か司馬さんの文章のなかで出逢った気がしている。

また黒田官兵衛を主人公にした作品「播磨灘物語」をみても司馬さんが播州播磨国に愛着を持たれているのは間違いないように思われる。

播磨という個性的な名前は調べてみたがその由来には決定打が無いようである。古い記録には針間国と表現される例もあるらしい。

私も昨年兵庫県の内、播州の東外れに越して来て早1年半になろうとしているが、先日永年播州地域に住む中学同級生からLINEで「あなたが播磨人になったと実感しました」とあり少々嬉しく面映ゆい感じがしたのだが、私自身は半世紀近く住んだ大阪人でもなく、播磨人でもなくやはり生まれ育った長州人という意識のままであり申し訳ない。

兵庫県旧国名で云うと、内海側の摂津国(せっつのくに)、播磨国淡路国(あわじのくに)、日本海側の丹波国(たんばのくに)、但馬国(たじまのくに)と五ヵ国にまたがる珍しい県で、私が大阪から摂津を経由して播磨に入ると確かに空気の違いを感ずる気がする。

特に新幹線に乗るため西明石や姫路に行こうとするとき、舞子や明石辺りを西へ越えると背後の山並みが後退していわゆる播州平野が現れて家並みも異なり、同じ兵庫県ながら明らかに土地が違うことを感じる。

司馬さんは播磨国播州を戦国時代三木周辺に蟠踞(ばんきょ)した別所氏という大名に代表させて説明している。

別所氏の主城は三木城(兵庫県三木市)で、種々の経緯を経て織田信長に反旗を翻し羽柴秀吉に囲まれた。

籠城に参加したのは百姓なども含め2万人程度だと思われるが「三木の干殺し」と呼ばれた壮絶な戦いの後城主一族の切腹で開城、籠城の2万人が播州各地に散り、この籠城戦を語り継ぐことになった。

またこの話を語り継いだ人々が明治維新で姓を作った際に三木と名乗った人が多く出た。三木城主は別所氏であり主人が城の名前を名乗らない以上家来筋に三木という姓は無いはずで、殆どの三木姓は昔語りのなかで出来上がったものだと司馬さんは推測している。

この司馬さんの話は私自身の実感でもある。私が兵庫県に昔からルーツがある人に三木の籠城戦や別所氏の話をすると半数位の人が話に乗ってくる印象がある。

この戦いの話が播州に広く根付いているのは、その終わり方が、城主一族が切腹することで他はことごとく助命されたというその潔さにあるのかも知れないし、そのことは同じ播州人である赤穂浪士に通じるものがある。

🔘今日の一句

 

三組の競馬ファン居て冬ミスド

 

🔘施設の庭、チューリップの植え付けが始まった、チューリップは毎年新しい球根を植直す必要があるらしい。(一度植えると毎年花が咲くと思っていた)

球根の山

球根を一定間隔に植えて土を被せ春を待つ