街道をゆく「播州揖保川(いぼがわ)・室津(むろつ)みち」

播磨国の内へ引っ越してきたので司馬遼太郎さんの「街道をゆく」のなかの播州部分を読み直すことを書いたがその第一弾として「播州揖保川室津みち」を読んでいる。

揖保川と言えば中国山地の山並みから播州宍粟(しそう)郡、竜野(たつの)を経て南下して播磨灘へ注ぐ川で、私など今の季節では「揖保乃糸」という素麺(そーめん)が真っ先に思い浮かぶのだが。

司馬さんは、黒田官兵衛が一時期住んだ、揖保川上流と中国自動車道が交差する山崎を起点に南下し竜野を経て古代からの湊まち・室津まで旅をしている。

これらのなかで私が自分自身の記憶から一番関心を持ったのが竜野である。現在はたつの市と表記され、龍野という字が当てられることもあるようだが、「街道をゆく」に合わせて竜野とした。

『私の記憶にある竜野

・童謡「赤蜻蛉(とんぼ)」で知られる詩人・三木露風のふるさと。

♪︎♪︎夕焼、小焼の赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か♪︎♪︎

これは露風の少年期の実景が芯になっている詩であるらしい。背負ってくれた母は離別して里へ帰り、代わって宍粟郡から来た姐(ねえ)やは15歳で嫁に行った。

いつ聞いても懐かしい田舎の心象風景が浮かぶ。山陽自動車道を娘の住む倉敷方面に向けて西へ進むと左手に赤とんぼの大きな絵と共に竜野の標識が目に入る。

竜野は寛文12年(1672)以降 脇坂氏53000石の城下町だったが、脇坂家初代・脇坂安治(わきさかやすはる)は若い頃は甚内(じんない)と名乗り数奇な人生を送った人物である。

脇坂安治近江国(おうみのくに・滋賀県)の生まれ、浅井長政に仕えた後、羽柴秀吉に属して各地を転戦、柴田勝家と天下を争った賤ヶ岳合戦では加藤清正福島正則等と共に「賤ヶ岳七本槍」の一人として名を挙げた。

関ヶ原合戦では当初西軍に属したが小早川秀秋等と共に途中から東軍に寝返り戦後家康から淡路・洲本33000石を安堵されている。
寝返りしても所領を没収された者もおり、これから見ると安治は、初期の段階から家康に通じていた可能性がある。その後伊予国(いよのくに・愛媛県)大洲・53000石に転封。

安治の二代後・安元(やすもと)の代、寛文12年(1672)に脇坂家が入部して龍野藩を立藩する。
ちなみに三木露風の祖父はこの龍野藩の奉行職を勤めていたとのことである。

脇坂家は安治の武勇に由来の、貂(てん・イタチの仲間)の皮が馬標(うまじるし)で、槍の鞘として用いられ常に行列の先頭に立ち天下に知られた。
司馬遼太郎さんが脇坂安治のことを書いた短編小説は題名を「貂の皮」という。

🔘ベランダに出たときには海上の船を見ているが、船の種類形状があまりに多いことに驚いている。特に貨物船は積み荷によって船上の形がそれぞれ違う。
元々海運に興味があるので見分けようとしているが遠くなのでなかなか難しい。
これらは明らかにコンテナ船