高砂と工楽(くらく)松右衛門

兵庫県高砂は結婚式の定番・謡曲高砂」の舞台であり瀬戸内海運と播磨の大河・加古川の舟運で発達してきた湊街で西方に姫路を控える。

中学時代の同級生のひとりが此処に住み、以前播磨繋がりで会った際に、高砂歴史観光パンフレットなどを頂いており高砂生まれの人物として工楽松右衛門のことなどが載っていた。

先日、12月20日のこのブログで、司馬遼太郎さんが江戸日本の各地域、各藩の多様さについて語られたことを書き、そのなかで江戸期の高砂生まれの代表的著名人として山片蟠桃(やまがたばんとう)と工楽松右衛門を挙げられたことにも触れた。

山片蟠桃については2022年9月1日のこのブログで既に書いているので、今回は工楽松右衛門について書かせて貰うことにした。

初代松右衛門(1743~1812)は、若くして兵庫湊に出て船乗りになり海運業を営む。その過程で当時の船の弱点のひとつであった帆布の耐久性を、織り方や継ぎ目を工夫することで格段に改良「松右衛門帆」として全国に普及させ財を成した。

その後才を見込まれ幕府や藩の依頼を受け函館、択捉(エトロフ)、鞆の津などの湊を改修、幕府からその業績に見合う「工楽」姓を許された。

二代目以降も地元高砂の湊を改修するなどしその居宅は史跡として現在も遺されているとのことである。

函館、択捉の地名が出たことでもわかるように、同時代に北海航路を切り開いた淡路島生まれの海商・高田屋嘉兵衛と松右衛門は互いに進取の気風を持ち知り合う仲で、司馬遼太郎さんが高田屋嘉兵衛を描いた小説「菜の花の沖」では嘉兵衛が函館に寄港して、築港工事を監督する松右衛門に出会う場面を以下のように描写している。

『「嘉兵衛、わしはえらい災難じゃ」と別に苦にもしていない表情でいった。

「工楽という苗字をもらい、帯刀してもいいということになると、損をすることになる。つまり、苗字帯刀とは私人にあらず公人と思え、ということがわかった。私費で大公儀の御普請をさせていただく」

つまりは苗字が幕府の松右衛門旦那に支払う報酬だという仕組みが、おかしかったのであろう。この苗字は松右衛門旦那にとって工夫することが無上の楽しみであるという意味で、幕府官僚のたれかがつけたらしい。

松右衛門旦那の工楽姓は、のち、大公儀によって正式に沙汰される。その子孫は、なお播州高砂で工楽姓を称している。』

🔘同じ時代の私のふるさとの「厚狭毛利家代官所日記」を見ても百姓身分からの献金、村役人などでの忠勤、などを促す手段として苗字や帯刀を許すことが使われており、このような手段がインセンティブとして広く一般化していたことがわかる。

🔘今日の一句

 

一年の想い巡らす柚子湯かな

 

🔘施設介護棟の庭、柊南天(ヒイラギナンテン)