5月6日の続き、
国司信濃が長州藩家老職に就任する時期、藩では大きな危機を迎えることになる。
文久3年(1863)8月18日の政変で長州藩は尊攘派七卿と共に京都から追放された。
元治元年(1864)6月池田屋事変で新選組により長州藩士吉田稔麿等多数が闘死。
同年6月15日これ等の事を受け藩論は沸騰、長州藩藩是を「狼藉者探索に罷り上る」として京都進発が決定した。
国司信濃は、永代家老の福原越後、益田右衛門介と共に進発軍の指揮官として藩主より軍令状を受ける。
全軍約2000人を四手に分けて信濃は来嶋又兵衛の遊撃隊を含む第三軍を預かる。
この時信濃直率は100名と言われ丁度石高に見合う人数であり、これが万倉の兵と思われる、
京都到着後長州軍は、嵯峨、伏見、山崎に分駐したが、信濃は嵯峨勢を統率、浪士などを加えて総勢900名となっていた。
長州軍の朝廷への請願が、孝明天皇の意を受け7万の兵を動員した一橋慶喜に拒絶されると、市中から御所へと進軍突入、山崎、伏見勢が早くに崩れるなか国司信濃の嵯峨勢が最も奮戦、御所蛤門、中立売門に突入して会津軍を蹴散らすも、新手の薩摩軍の介入で形勢逆転、来嶋又兵衛等も相次ぎ討ち死にして、残る兵は故郷へと落ち延びることになり、「禁門の変」が敗戦で終わった。
朝敵になった長州藩に対し幕府は第一次征長令を発し大軍を藩境に集めたため藩政府は政府員を交替、幕府への恭順を図るべく禁門の変の責任者、福原、益田、国司三家老の切腹と四名の参謀を斬首とした。
三人の家老は自身の死で長州の滅亡を防いだ事になる。
徳山で切腹した国司信濃の辞世は「よしやよし世を去るとても我が心、お国のためになほ尽くさばや」
墓所は奥万倉の天龍寺にある。
三家老は明治になって名誉回復、国司信濃は位階・正四位を追贈され併せて靖国神社に祀られている。
ウオーキング途中に見た、工場のフェンスに寄りかかる花。