悪党(あくとう)とはよくTVや映画、小説などでよく使われる言葉で人の道に外れたり罪を犯すような行いや人を指し、悪人、ならず者、ごろつきなどで表されまた人をののしって言う言葉でもある。
しかし中世の日本では支配層や体制に刃向かい自分たちの利益を主張したものを「悪党」と称した。この場合の悪党は身分、階層、職業を表すものではなくあくまで紛争の当事者や第三者からみた呼称である。
小泉宜右(こいずみよしあき)著「悪党」吉川弘文館刊 を読み終えた。もちろんこの本で扱っているのは後者についての論考である。
悪党という言葉は古代「続日本紀(しょくにほんぎ」の記述に初めて現れるようだが、実際に頻発するのは鎌倉時代中期以降からで執権・北条氏の権力集中により外様御家人(とざまごけにん・北条氏系以外の武士)の力が落ちてきたことが背景にあると著者は述べている。
初期の悪党はみすぼらしい異様な風体をした小集団であったが、時代を経ると武士団として騎馬を連ねて行動し守護までが恐れを抱くまでの集団になり政権担当、荘園領主と衝突するような集団に成長する。
また悪党の多くは当時の先進地帯である畿内やその周辺で集中発生したが、これらの地域は荘園領主・地頭・荘官(荘園の管理者)・農民・非農業民がそれぞれの勢力拡大を意図してひしめきひとつの土地に対しても権利が重複し紛争の種が潜在していたからだとしている。
各地の悪党の活動実態と幕府や領主側の対応が史料を元に例示されていくが、南北朝以降室町幕府の安定と共に「悪党の時代」は終わりを迎える。
荘園体制の擁護者でもあった鎌倉幕府の滅亡と長期に渡る内乱を経て荘園の多くが従来の荘園領主・公家や寺社の手から離れて没落し、武家の実力者の手に土地が渡り、在地勢力を悪党呼ばわりすることがなくなったからである。
実力主義の武家政治の定着が悪党の存在を小さくしてしまったが、彼らの活動は結果的に荘園体制崩壊に大きく影響し時代を前進させた。
私の郷里、山口県厚狭に古くからある松嶽山(まつたけさん)・正法寺(しょうほうじ)にも寺領が6ヵ所あったが、同時代にそれが地方豪族・厚(あつ)氏、由利氏、箱田氏などに強奪されたとの京や守護宛ての訴状の記録が今に遺されている。
正法寺からみるとまさしく地頭等は悪党に当たり、武力を持つ悪党に対し寺領や既得権を守ることが並大抵でないことが切々と伝わってくる。
また現在住んでいる播磨地域の郷土史を読むと、同時期の悪党の双璧として西播磨の寺田法念(てらだほうねん)、東播磨の垂水繁昌(たるみしげまさ)の名があり、二人とも元は荘園の管理者・荘官とされる。
【歩き出す 頬の風にて 師走知る】
🔘12月に入り冬らしい空気に入れ換わったが海もそれにあわせて変わってきた。大阪湾の向こうは大阪府の陸地が見えるが更に雲の向こうに海が有るような冬らしい景色が見える。