長門国守護・厚東(ことう)氏

先日このブログでふるさと厚狭の「寝太郎物語」について3回に分けて書いたが、「寝太郎とは何者なのか?」の答えを私なりに「厚東氏」との関わりで推定した。

この為今一度厚東氏のことを調べ直したいと思い色々当たって見たが、毛利氏、大内氏等に比べて関連史料が驚くほど少ない事が今更ながら良く分かった。

やはり厚東氏に関しては以前大阪梅田の古本屋で見つけ購入していた、川副博著 「長門国守護 厚東氏の研究及び史料」風間書房刊 が随一でこれを機会に特に厚狭との関わりに留意して読み直してみた。

著者は山口大学の教授を勤められた関係で、厚東氏を調査研究されるようになったらしく、かつて厚東氏の本拠地であった山口県宇部市厚東の郷土史研究会等の協力も得て、とりまとめられたと序言に書かれている。

結論的には寝太郎物語のような治世、民政に関わる内容は殆ど無く比較的史料の残る、合戦興亡、寺社由来が多くを占め当初の目的には遠いが、その中で興味を覚えた内容は以下の通りであった。

①厚東氏は物部(もののべ)氏の出自で、蘇我馬子(そがのうまこ)と戦って破れた物部守屋(もりや)を始祖にしている。私が今住んでいる八尾市一帯は物部一族の本拠地であった処で守屋の墓もあり何かのゆかりを感じる。

②厚東氏の本拠地・長門国厚狭郡の宇部(うべ)は海辺(うみべ)から来ていると考えられ、厚東川下流辺りで相当の船舶によって他と交通し、富と文化が異国を含めてもたらされたとも考えられる。

③以前のこのブログに書いたことがあるが、天平宝字8年(765)厚東氏4代武綱は海の神・九州宗像大神宮を厚狭郡内万倉(現宇部市万倉宗方)に勧請した。

④記録によると厚東氏が南朝(後醍醐天皇)方に応じた際、
長門国のアサ(厚狭)やアツ(厚保)など近隣の豪族を同道している。

建武新政建武元年(1334)厚東氏は長門国守護に補せられ守護所を府中(現在の下関市長府)に置いた。
(厚狭は厚東氏の本拠厚東と府中との中間に位置する。)

⑥同年長門国守護・厚東武実(たけざね)は厚狭山野井の松嶽山正法寺(まつたけさんしょうほうじ)が訴えた地頭による寺領の乱妨(横領)を、寺の訴えを認めて停止させる文書を発行している。

南北朝の争いの中で周防(すおう)国を統一した大内氏と厚東氏は衝突を繰り返し、正平18年北朝は厚東氏から長門国守護職をはく奪、大内氏に与えた。これにより厚東氏は敵方南朝に応じるが南朝の衰退と共に厚東氏の政治勢力も失われていく。
(この頃日本中の武士が敵、味方の転変を繰り返す)

☆厚東氏が厚狭を含む一帯を勢力下においていたことは間違いなく、交易などによる財力も有ったと考えられ、「寝太郎灌漑事業」の状況証拠には成り得るが、残念ながら直接証拠には至らない。

🔘山口県地方史学会発行の長門国守護・厚東氏発給文書集

◎野生化しているので図鑑によるとオランダカイウだと思われる。



◎厚東氏の研究及び史料