「太平記の世界・列島の内乱史」応永の乱/ブログ中断のお知らせ

佐藤和彦著「太平記の世界・列島の内乱史」吉川弘文館刊を読み終えた。

この本は14世紀の30年代から鎌倉幕府の終焉と共に約60年間にわたって日本列島を広範囲に戦乱に巻き込んだ南北朝時代を、室町時代に成立した軍記・太平記を共通の手がかりにして描こうとしたものである。

その描く術としてこの時代に活躍した人物、後醍醐天皇足利尊氏楠木正成夢窓疎石(むそうそせき)、佐々木道誉(ささきどうよ)、足利義満(あしかがよしみつ)の6人に焦点を当て時代を浮かびあがらせようとしている。

それぞれの章が独立している為に、どうしても社会情勢や戦いの様相などの記述が重複してしまう欠点が生じてしまうが、同じ事象を違った立場でみることが出来るという利点もある。

ここでは全体を振り返ることはせず、私の最も興味のある山口県郷土史の観点から、この本の中で「応永(おうえい)の乱」として足利義満の章でとりあげられている、大内氏の反乱事件について書いておきたい。

南北朝の対立動乱は時間経過と共に、北朝とこれを支える室町(足利)幕府の優位が揺るぎないものとなり、三代将軍・足利義満の時代、明徳3年(1392)南朝から北朝へ神器が渡され南北朝合一が果たされた。

この和議の仲介役となったのは当時将軍家を支え、山口を地盤に周防、長門、石見、豊前に加え、和泉、紀伊、6ヵ国の守護まで兼ねるようになっていた大内氏第25代・義弘であった。

これ以後、足利義満は将軍権力強化を図るため有力守護大名の弱体化を進め、細川氏土岐氏、山名氏の内部分裂を画策実行し、次に狙ったのが大内氏であった。

義満が金閣寺で有名な北山第(きたやまだい)を造営する際、諸大名へ合力を命じたものの義弘は「武士は弓矢で奉公」といって人数を出さなかったことや、大内氏の大陸貿易を義満が快く思っていなかったことなどから両者の不仲は決定的になった。

義満から上洛を促された義弘は応永6年(1399)反幕府勢力と連携をとりながら、守護として和泉国堺に軍勢を率いて入った。

義弘が上洛を拒み続けた為、義満は大軍を催し堺を攻撃、遂に義弘は戦死する。大内氏は和泉、紀伊、石見、豊前国守護を取り上げられ本拠地周防長門のみが残され内戦の後、義弘の弟・盛見(もりあきら)が大内氏第26代を継承する。

盛見はその後安芸、石見、豊前筑前まで勢力を拡げて幕府に実力を認めさせ、大内氏が再び勢力を盛り返し戦国時代を迎えることになる。

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🔘今日の一句

 

マスクしたスマホの海で書を読まん

 

🔘施設介護棟の屋上庭園、寒さに耐えるキンセンカ