武将・今川貞世(いまがわさだよ)とふるさと厚狭①

図書館で呉座勇一(ござゆういち)著「戦争の日本中世史」新潮選書 を借り出してようやく読み終わった。
一般に中世とは武家が台頭する平安時代末期、保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱に始まり室町時代戦国大名の登場までを云う場合が多い。

この間には源平合戦承久の乱、蒙古襲来、南北朝の動乱、感応の擾乱(かんのうのじょうらん)、応仁の乱等々が絶え間なく起こりまるで「戦争の時代」ともいえる。
著者はイデオロギーや観念論を前提にした従来の視点を排し、リアリズムに徹して史料を読み込み、この時代を懸命に生きた人々の姿をありのままに描き直しそこから学ぶべきことなどを導こうとしていて、私は以前からその手法を感心して見ている。

著者はベストセラー「応仁の乱」などで近年著名な中世史を専攻する気鋭の歴史研究者でTVでも見かけることが多くなった。
多量の史料を調べ尽くすのが真骨頂で、その為もありこの本の中身を紹介し始めるとキリがない。それでどう紹介するか迷った末書かれている史実の中で、ふるさと厚狭に関係する糸口を見つけそれを書くことにした。

室町三代将軍・足利義満の治世、この頃南北朝の争乱はほぼ北朝優位が定まり室町幕府の天下が確立し始めていた。
しかし九州だけは例外で後醍醐(ごだいご)天皇の「戦う皇子」・懐良親王(かねよししんのう)が征西将軍府(せいせいしょうぐんふ)を設立して地域の豪族を南朝方として結集した。

この為将軍義満は応安4年(1371)今川貞世九州探題(きゅうしゅうたんだい)に任命して征西将軍府を滅ぼす任務を与えた。

今川氏は足利将軍家の縁族で遠江駿河(とおとうみ、するが、何れも現在の静岡県)を地盤とする名門で、後に桶狭間織田信長に討たれる今川義元は一族である。

貞世は後に出家して了俊(りょうしゅん)と号するが文人でもあり和歌も詠み、九州へ赴任するため京を発ち山陽道を下る道中記「道ゆきぶり」を残しており、この中に当時泊まった私のふるさと厚狭のことを書いている。

前置きが長くなり、厚狭に関連した内容は次回に書くことになる。
その後九州に赴任した貞世は北九州の平定に成功するものの島津氏等南九州の攻略には失敗し、幕府からハシゴを外され解任されてしまう。

🔘施設の玄関、サンパラソルと表示がされている。