「さようなら」

別れの言葉「さようなら」は「左様なことならば」、「左様であるならば」という言葉から派生したことはよく知られている。

すなわち前に起きたことを区切って次につなぐ節目、今までこうであったならば一度区切ってこの先はこのようにしようというような意味で使われていたことが語源と考えられている。

「さらば」「さよなら」なども当然これらの延長線上にあるのだろう。
考えてみると時代劇のフレーズ「さらば 達者でな!」は、それではと今までを区切った上で、別れを告げて、相手の健康を祈る、短くても3段階の完璧な構成になっていることがわかる。

なぜこんなことを書く気になったかと云うと、日経新聞の文化欄で、芥川賞作家の村田喜代子さんの「あの青い空の高みで」と題したエッセイを目にしたからである。

「翼よあれがパリの灯だ」で名高い、大西洋無着陸横断飛行を初めて成功させたアメリカ人チャールズ・リンドバーグの妻、アン・モロー・リンドバーグが古い手記のなかで日本の「さようなら」の意味を書いていることを紹介されている。

前後の経緯内容は長くなるので省略するが、アンは日本での歓迎を受けて横浜埠頭から旅立つに当たり「さようなら!」の叫びを聞いて意味を尋ね「そうならねばならぬなら」と教えられたと書いているそうである。

村田さんはもちろん「さようなら」が「左様ならば」であることを知った上で、この「そうならねばならぬなら」という諦念(ていねん・あきらめ)に満ちた表現が、リンドバーク夫妻におとずれていた不幸、息子が誘拐殺人の被害者であったことと結びつけてアンの胸中を推し測っている。

アンは夫の勧めで飛行機の操縦免許を取り女性飛行士の草分け的存在になったが、村田さんは彼女が余人のいない雲の浮かぶ高みで、亡き児と会ったのではないかと書いている。

「さようなら」は日本語らしい語源を持ちながら、それぞれの人の心持ちによって色々な意味合いに大きく変化しうる言葉らしい。

余談ながら各国で「さようなら」を意味するのは多種多様な表現が用いられている。例えば、
・中国語は再見(さいちぇん)で、また会いましょう。
タイ語はサワデー(カップ)で(別の表現もある)、こんにちはと同じ挨拶。
・英語はGood byeで、神の加護がありますように。

🔘今朝は歩きで今年初めて蝉の声を聞いた。
真東に見える低山三連峰、地図をみると右から栂尾山(274m)、横尾山(312m)、高取山(328m)、各々登山ルートがあるらしい。