「陶隆房と大寧寺の変」

室町時代に防長ニ州(周防国長門国山口県)を含めて西中国地方や北九州を勢力下に置いた大々名大内氏の当主・義隆を、家臣の陶隆房(すえたかふさ・後に晴賢・はるかた)が、天文20年(1551)自刃に追い込んだ下剋上(げこくじょう)事件は、義隆が自刃した場所の名を取って「大寧寺(たいねいじ)の変」と呼ばれる。

この事件は結果的に安芸国(あきのくに・広島県)を本拠地としていた毛利氏の防長両国への進出に繋がり、長期の視点で見ると幕末から明治維新長州藩の活躍に至っており、云わば山口県史の画期と言えなくもない。

湯本温泉の近くにある大寧寺には中学の同窓会の折りに訪れたことがあったり、同級生に陶氏の家臣だったとの伝承を持つ人が居たり、厚狭毛利家の菩提寺・洞玄寺(とうげんじ)は大寧寺の末寺であること等々何かと縁があり、このブログでも何度か陶隆房に触れた事がある。

昨日、山口県地方史学会の機関誌「山口県地方史研究・第126号」が届き早速読み始めているが、この中の[研究]枠に中原 健氏の「陶隆房大寧寺の変について」という論文が掲載されていた。
f:id:kfujiiasa:20211030161824j:plain

その要旨は各種の史料をふまえて、

大内氏は義隆の祖父政弘や父義興など本拠地山口を留守にして、ときの将軍を支えるため率兵上洛(そっぺいじょうらく・兵を率いて都にのぼる)した歴史があり足利将軍家と関係が深い。

陶隆房も将軍家から重く処遇されており、そのレベルは越後守護代長尾景虎(後の上杉謙信)に匹敵する。

陶隆房は義隆死後に晴賢に改名するがその「晴」は従来云われたような大友晴英(後の大内義長)からではなく足利義晴からの偏緯(へんき)である。

・隆房は、将軍家から上洛を促されていたにもかかわらず煮え切らない義隆に業を煮やし「大寧寺の変」を起こした。
すなわちこの変は畿内の将軍家の動向に関係して発生したものと考えられる

◎今までの定説とはかなり隔たりもあるが、興味ある対象でもあり今後も注意して関連情報をウオッチしていきたい。

◎昨日朝歩いていてふと顔を上げると名前は分からないがオリーブのような実がなっている木に出逢った。
f:id:kfujiiasa:20211030181214j:plain
f:id:kfujiiasa:20211030181239j:plain