山口県地方史研究・大内義隆の官位に関する一考察①

専門外ながら入会させて貰っている山口県地方史学会から会誌「山口県地方史研究第130号」が送られてきたが、今号には私の疑問にも応えてくれる興味ある研究が二つ載せられていた。そのひとつが山口市の西田智洋氏の「大内義隆の官位に関する一考察」である。

戦国期に山口を本拠地にして西中国、北九州一帯に勢力を及ぼした大内氏の実質的な最後の当主・義隆は、天文20年(1551)家臣・陶隆房(晴賢)の謀反、いわゆる「大寧寺の変」で自刃する。

一般的にはこの謀反は義隆の文治派重視、公家好みが武断派家臣一同に見放された結果とされている。

この研究のなかで私にとって新しい知識になったものが二つある。ひとつは義隆が通常考えられないレベルの官位を保持していたとされることである。

今まで大内氏歴代が朝廷の高い官位を与えられていたことは知っていたが、これほどとは思わず驚きである。

参議従二位行兵部卿兼侍従太宰大弐多々良朝臣義隆」が記録され史料からも裏付けられている。

この官位を私なりにひもとくと、

参議(さんぎ)は朝廷の官職のなかで関白・大臣・大中納言の次に位置し、大臣と共に朝政に参議する。通常参議以上を公卿(くぎょう)という。

従二位(じゅにい)は律令制で30に区分された位階の上から4番目、従二位で有名なのが平清盛正室・時子で二位の尼と呼ばれた。この時代武家で従二位は極めて異例で当時の将軍・足利義輝の生前最高位は従三位(じゅさんみ)であり朝廷の序列で将軍を超えていたことになる。

兵部卿(ひょうぶきょう)は軍事を司る兵部省の長官名、この時代では形式の名だが武門の棟梁としての名目には充分である。

行(ぎょう)とは官職相当の位より保持する位階が高い場合官職に冠する慣わし。参議は通常三位相当であるため従二位の義隆に付されている。

侍従(じじゅう)は天皇に近侍する役職で通常参議等が兼任する。

太宰大弐(だざいのだいに)は平清盛が任ぜられたことで有名だが、太宰府の次官である。長官である師(そち)は親王が任ぜられることが慣例で実質的な長官職となる。大内氏は歴代九州を支配下にすべく北九州に進出していたが、名目とはいえ九州を統括する大宰府の官は九州の豪族を従えるうえで大いに役立つと思われる。

多々良(ただら)とは大内氏の本姓で朝鮮半島百済の出自伝説を持つ。

朝臣(あそん)は元々姓であったが当時は敬称となっていた。

この官位や各種の史料各種論文を基に西田氏は、大内義隆は堂上(どうじょう)と呼ばれる昇殿を許された高位の公家社会の成員となることで、本来天皇を公家と両属で支える武家が足利家だけであるという室町幕府体制に変化をもたらし、将軍の権威が相対的に低下する可能性を持っていたとまとめている。

何れにせよ本来国の指導者に相当する官職を地方の大名が保持していたことになる。

ー続くー

🔘今日の一句

 

歌に知る花に出逢いの冬日

 

🔘施設介護棟の庭、面白い形の花がわずかに咲いていた。画像検索で調べてみるとこれがエリカであることがわかった。

西田佐知子さんが唄った懐かしい歌「エリカの花散るとき」は私のカラオケ持ち歌のひとつだが、今まで本物を見たことがなかった。初めての知識になってとても嬉しい。