左衛門尉(さえもんのじょう)あれこれ

中学校の同級生からの頼まれ事で、家に伝わる系図の写しの内、遠い先祖について書かれてある来歴を読んで欲しいとの事であった。

読んでみると、このご先祖は歴代中国地方の大々名・大内家の家臣とのことで、重臣陶晴賢が、主君大内義隆に謀反を起こして殺害した後、毛利元就と安芸宮島で厳島合戦に及んだ折りに、陶方で従軍、負け戦で敗走した後、やむを得ず土着したとのことであった。

この先祖の名前が ○○左衛門尉○○と記されている。

左衛門尉(さえもんのじょう)は律令制の官職で、皇居諸門の警備や天皇行幸の際の供奉警護を担当する、左右の衛門府(えもんふ)の3番目の位に当たり、位階は通常従六位から正七位。

No1が督(かみ)、No2が佐(すけ)、No3が尉(じょう)で判官ともいう。従って左衛門府の場合は、左衛門督、左衛門佐、左衛門尉の順番である。

有名人では六文銭の旗印・真田幸村が真田左衛門佐信繁、江戸町奉行遠山の金さん・遠山左衛門尉景元と言った具合でTVでも馴染みの呼び名になっている。

問題は大内氏の一家臣になぜこのような官職名が付けられていたかだが、2種類の答えが考えられる。
①正式に朝廷から授けられた。
この場合の鍵は、大内家の家臣であったことで、当時の大内氏は中国・明との勘合貿易で莫大な富を蓄え朝廷や幕府と密接な関係を築き、その富で朝廷にも多大な献金を行っている。
その見返りに当時の当主義隆は従二位兵部卿という地方大名では考えられない官位まで昇っており、家臣を含めて献金の威力で大盤振る舞いをして貰った可能性もある。

②勝手に名乗って(私称)いる。
朝廷の武官名である近衛府兵衛府衛門府、等の官職は特に武家に人気で、通常幕府が機能している場合は、幕府を通じて任官される。
然し朝廷や幕府の権威が衰えた室町時代以降は、戦国大名が勝手に褒美の土地の代わりとして家臣に名乗りを許したり、甚だしい場合は自称したり先祖を美化したりするケースが多々あった。

今回のケースが①②何れに当たるか、今となっては分からないが、何れの場合でも先祖に思いを馳せることは次世代に繋がることであり、お盆に近い今の時期が、良い機会かもしれない。

近くの小学校、ネットフェンスの下から覗く花②
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