日本で一番小さな大名・清末藩一万石

私の故郷山口県厚狭の町から国道2号線を西に行くと埴生、小月の集落があり、もう少し行ったところの右手、山側一帯が今は下関市に含まれる清末(きよすえ)地域になる。ここには母親の弟に当たる親戚があり懐かしい地名である。
昨年11月同窓会で帰省した折、同級生の妹さんの車に便乗させて貰い下関市長府歴史博物館に立ち寄った際は、丁度この道をたどり右手に清末を懐かしく見て通った。

明治維新を迎えるまでここに日本で一番小さな大名・公称一万石の清末藩毛利家があった。
清末藩は萩の本藩からすると孫藩に当たり全国的に見ても珍しい位置付けになる。

関ヶ原合戦の後、徳川幕府の体制下、今の山口県領域(周防国長門国いわゆる防長2州)を治めた萩・毛利藩には別家として長府藩徳山藩があり、これ等は藩の名の通り萩藩に従属すると同時に徳川家の直属家臣としての立場を有していた。

似たような立場に岩国吉川家があり、表高3万石であったが家祖吉川広家関ヶ原合戦の折、徳川方に内通した事が毛利一統の中で快く思われておらず萩毛利本家は幕府に諸侯としての届けをしないままで、江戸時代を通じ微妙な立場に置かれていた。

このような体制でスタートした萩・毛利藩であったが途中からこれに清末藩が加わる。

この日記にも書いてきた初代長府藩毛利秀元は元々萩毛利家3代目輝元の後継者であったが輝元に実子が誕生したため身を引き長府藩を立てたが、一時萩藩全体を後見したり将軍家光のお咄衆に取り立てられたりして格別の待遇にあった。

秀元は慶安3年(1650)10月死去、遺言を残し次男光広(長男早世)の家督相続と三男元知(もととも)への分知を記した。

秀元生前の根回しや功績、子女の配偶者であった幕府老中・稲葉正則や同じく幕府譜代・淀藩主永井尚征の奔走等が功を奏し、幕府の承認を得て承応2年(1653)元知を初代藩主として清末藩一万石が新たに立藩、下関攘夷戦争や四境戦争等、幕末の苦難を萩、長府と共に闘い明治に至る。