陶晴賢の謀反

一般に、戦国時代の武将陶晴賢は中国地方に君臨する大大名の主君大内義隆に対して謀反を起こして大寧寺で自刃させ、その後厳島の戦い毛利元就に敗れて自刃した「悪人」という印象が定着しているように思われる。

私の中学同級生に先祖が陶氏の家臣だったとの伝承を持つ人がいることもあり、この陶晴賢大内氏に対する謀反について、歴史家の小和田哲男さんの著作「戦国の群像」学研新書を参考にしながら一般論とは異なる見方を書いておきたい。

陶晴賢は元々隆房と称していたが、義隆自刃後大内氏の跡目に豊後大友氏より大内晴英を迎えたため、新たな主人となった晴英の一字を貰い晴賢を名乗った。陶家は大内氏の親族で隆房は重臣筆頭、周防国(山口県)守護代であった。

大内義隆は尼子氏との戦いで嗣子を喪った後、政治、軍事を放り出して陶隆房の諫言に全く耳を貸さず却って遠ざけた。
この時の隆房が謀反に至る心境を、史料として価値ある「大内義隆記」に次のように書かれている。

「隆房申しけるに天の与えを取らざれば却ってその科をうく、時に至りて行わざれば却ってその科をうくと云う本文(史記の記述)あり。我が運も義隆御運も、天道のはからいにてぞ候う」

すなわち隆房は、ここで諫言を聞かず悪政を行う義隆を除かなければ天罰が降ると考えたと記されており下剋上を正当化している。
歴史にもしは禁句だが、もしその後陶氏が毛利氏に敗けていなければ大内氏への謀反は正義となった可能性が高い。
この思考は中国の王朝交代即ち易姓革命の論理と全く同じなのである。

現代の物の見方や価値観と当時の考え方が必ずしも同一ではない事を前提に歴史を見ていく必要がある。