12月10日の続き
前回、中国地方や北九州に君臨した戦国大名大内氏の最後の当主・義隆が足利将軍家を超えるような官位を得ていたことを書いたが、ではなぜそのようなことが可能になったのか、研究者の西田氏は史料から得られたこととして、義隆から朝廷への高額の献金をあげ、それによって朝廷の儀式が再興されたとしている。その例は、
・天文3年(1534)後奈良天皇の即位礼の費用として20万疋(ひき)を献金。
・天文6年(1537)途絶えている朝廷の儀式を再興する費用と推定される理由で10万疋献金。
・天文3年から亡くなる天文20年(1551)まで毎年3000~4000疋を「今年の御礼」として定期的に献金。など
以下は私の個人的見解になるが、
当時の銭高を現代の価値に直すことは難しく、色々な資料を調べてみると銭100疋を意味する銭1貫文は、概ね現代の10万円~15万円の間に入るようである。仮に中間の12.5万円として計算すると20万疋は2億5千万円となる。
歴代大内氏が地の利を生かし、また出自が百済の王族である伝説を作るなどして、大陸と独自の交易を行っていたことは広く知られる。
また有名な石見銀山を再開発したり、尼子氏などと争奪戦を繰り広げた歴史がある。これらから得られた利益が朝廷への献金の財源になっていると推定される。
武家の主(あるじ)が公家化して朝廷一途となり、一所懸命でようやく得た貴重な金を費消していくのを黙って見ていられない武士が居てもおかしくない。
武断派と言われる陶隆房(晴賢)等の謀反・「大寧寺の変」の原因はこの一連の研究のなかでかなり説明出来るような気がしている。
🔘山口県在住の同級生に送って貰った現在の大寧寺、大内義隆の碑
🔘今日の一句
寒空を薄着の子らが跳ねてゆく