「山陽町史」⑦箱田氏と惣社(そうしゃ)八幡宮

現在厚狭の郡(こおり)地区にある惣社八幡宮は加藤地区にある鴨神社とならんで地域のなかで最も古く由緒のある神社である。

2020年に撮った参道から神社を見上げた写真、時間がなく社殿に行けず。

社伝によれば、箱田小太郎広貞が末益村に社を建て文治3年(1187)に鶴岡八幡宮を勧請し大宮司職に補せられたことに始まる。

宮司職はその後幡生(はたぶ)氏に移ったが、元々社地は板垣の津(現在の下津)にあり、毛利氏が防長の領主となり、三澤氏が厚狭一円の給領主となると社地を屋敷に充てたため社を現在地・渡田如意山に移した。

寛永の検地では社領10石を与えられ毛利氏の庇護を受けた。厚狭毛利家の領内民政記録「代官所日記」には度々その名前が登場する。

総社または惣社とは一般的に律令制の国(例;長門国)や郡、或いは地域の社を一ヶ所に集めた歴史のある神社を指すが、この場所(郡の役所・郡家(ぐんげ)があった場所に近い)にあることから察すると、古代~中世にかけて旧厚狭郡の惣社であったと私は考えている。

厚狭の箱田氏については系譜も残っておらず史料も乏しいが社伝などを参考にすると、箱田小太郎は源義経の手に属し壇ノ浦で軍功を立て源頼朝から厚西(厚狭)郡他二郡の地頭として宛がわれ長門守頼道と改名させたとある。

箱田氏の名前が史料に残るものの中に、

・明徳3年(1392)松嶽山正法寺の寺領・末益名(すえますみょう)を地頭・箱田長門入道が横領した事件

・応永9年(1409)大内氏、盛見と弘茂の兄弟争いで弘茂に味方した厚狭下津の地頭・箱田伊賀守弘貞は盛見方・杉伯耆守重綱の攻撃を受け菩提寺である長光寺の裏山で防戦したが力尽き主従36人が全員討死、長光寺も焼失したと云われる。

(厚狭毛利家の菩提寺・洞玄寺はこの長光寺跡地に厚狭毛利家二代・元宣が父親で初代・元康の菩提寺として建立した)

箱田氏はこの後も断片的に史料の中に見え隠れして、天文年間(1530年代)頃まで厚狭の地頭として存続しその後断絶したと伝わる。

🔘今日の一句

 

幼子が母を振り切り蜻蛉追う

 

🔘健康公園の草むら、可哀想な名前だがアレチヌスビトハギ(荒地盗人萩)の花、この種子がひっつき虫になる。