神戸の歴史④応仁の乱と防長の雄・大内氏

4月6日の続き

西国から上って来る軍勢が兵庫神戸で戦うことになるケースの最後は私の郷里にも関係する大内氏の「応仁の乱」にまつわる戦いである。

室町三代将軍・足利義満に始まる勘合貿易・対明(みん)貿易は「応仁の乱」当時まで兵庫湊が中心であった。

応仁の乱は八代将軍足利義政の時代、応仁元年(1467)に大名家の家督争いに端を発して約11年続いた大乱で、東に陣を敷いた細川勝元以下の軍と、西に陣を敷いた山名宗全を主将とする軍が京を中心に各地で戦った。

当時周防国長門国(現在の山口県)を地盤とする守護大名大内氏十四代・政弘は地理的条件を生かし私的な大陸貿易を行っていたが、正規の貿易である勘合貿易に参加したいとの欲求があり、応仁の乱が始まると西軍に与して大軍を率いて直ぐに東上、兵庫の湊を抑え併せて京に上り西軍の主将格として東軍・細川方と対決することになる。

東軍は重要な大陸への窓口である兵庫を回復すべく動いたため、両軍攻防の的になり町は灰塵に帰して治安も乱れ、遣明船(けんみんせん)の発着は以後堺の港に移ることになる。

大内政弘応仁の乱終結に伴い文明9年(1477)京より帰国するが、この時九代将軍・足利義尚から周防・長門豊前(福岡県大分県)・筑前(福岡県)各国の守護職に任ぜられると共に石見(島根県)・安芸(広島県)にまたがる所領についても安堵され西国に君臨する。

山口を拠点に西国を抑えた大内氏は十六代・義隆の時代天文20年(1551)重臣陶隆房(後の晴賢)等の謀叛により実質的に滅亡する。

 

【黄砂舞い異郷の処世思い遣る】

 

🔘健康公園の小鳥は余り人を怖れる様子がない。このツグミは小さなミミズを食べたり探すのに夢中で私が1m位に近付いても気にしない。