「戦国武将三澤氏物語」④尼子・大内・毛利の狭間で

7月20日の続き

1470年頃には出雲国(いずものくに・島根県)の国人(こくじん・在地領主)のなかで中心となるような成長を遂げた三澤氏であるが、応仁元年(1467)の応仁の乱に始まる戦乱の時代は、数ヵ国を一元的に支配する戦国大名の争いの狭間で揺れ動くことになる。

中国地方の覇権を争ったのは、尼子氏、大内氏、毛利氏である。

出雲国守護代(しゅごだい・守護大名に代わり現地で実質経営する)であった一代の英傑・尼子経久は下克上(げこくじょう)で守護・京極氏を追い出し独立、最盛期には10ヶ国を治めた。

これに対抗したのが周防国(すおうのくに・山口県)を本拠に、九州北部から中国地方西部に勢力を張り安芸国(あきのくに・広島県)の毛利氏などを従えた名門大内氏で、尼子氏と争い共に勝ち負けがあった。

三澤氏は地理的な面もあり尼子氏に服従を強いられ合戦に身を投じることになるが、天文12年(1542)大内氏が毛利氏などを引き連れ尼子氏の本拠・月山富田(がっさんとだ)城を囲んだ折りには一時的に大内氏に与した経過があり、その後尼子氏方に再帰投する。

大内氏が天文20年(1551)陶晴賢(すえはるかた)の謀反で滅亡すると、大内氏の版図は陶氏を滅ぼした毛利氏のものとなり、石見銀山もその支配下に置き時をかけて尼子氏を月山富田城に追い詰め、永禄9年(1566)遂に降伏開城させ、戦国大名・尼子氏は滅亡する。

三澤氏九代・為清、十代・為虎親子は石見銀山が毛利氏のものとなった永禄元年(1558)頃には情勢を見て毛利氏の傘下に入り以後一貫して中国地方や北部九州の毛利氏の作戦に従軍することになる。

この頃尼子氏なき後、出雲の最強国人武将となっていた三澤氏を毛利氏側でも警戒の目で見るようになっていく。

この時代の三澤氏を率いたのが後に厚狭に足跡を刻む十代・為虎で母親は尼子氏の娘と言われ、この辺りにも毛利の猜疑心が生じる点があったのかも知れない。

 

🔘一日一句

 

幼子の体温迫る夏電車

 

🔘介護棟の庭、サフィニアと思われるがペチュニアというよく似た花があり少し自信がない。