「出雲尼子(あまご)一族」/夕虹

ふるさと厚狭(現在山口県山陽小野田市)に縁があった出雲国(いずものくに・島根県)出自の戦国武将・三澤氏の足跡をたどるとどうしても出雲を本拠地とした戦国大名・尼子氏と向き合わざるを得ない。

これは一度尼子氏に関する本を読んでみなければと思い図書館で米原正義著「出雲尼子一族」吉川弘文館 刊を探しだし借りてきて読み終えた。

著者は2001年に亡くなられた日本史の研究者であるが、この本の実績で世間では尼子氏の研究者と思われている節もあるらしい。何れにせよ尼子氏について数少ない貴重な書籍と言える。

本全体のことは書ききれないので私自身新たな知識になった主なことを書くことにした。

・尼子氏は近江源氏・京極佐々木氏の出自で、近江国(おうみのくに・滋賀県)甲良庄(こうらのしょう)尼子郷を所領としたことに始まる。

・明徳3年(1392)出雲国は山名氏に代わり京極氏が守護に任ぜられるが、ほどなくして尼子氏が出雲守護代として下向、出雲尼子氏初代・持久、二代・清貞と出雲経営を進めるなか三代・経久は一度は守護代罷免という挫折を味わうも、再起して守護・京極氏を追い出し出雲を掌握しその後領国を拡張すべく活動する。

・尼子の勢力は大永元年(1521)頃に絶頂期を迎えるが石見、伯耆、美作、備前、備中、備後、安芸、播磨、出雲、隠岐と十一ヵ国にその命令を伝えることが可能であったとされる。

・尼子氏の経済的基盤は、石見大森銀山、(たたら)製鉄とその加工品、日本海の港湾での大陸(唐、朝鮮)を含む交易などであったと考えられる。

・尼子氏は永禄9年毛利元就によって月山富田城を開城し降伏するが第五代義久、弟の倫久、秀久の三兄弟は助命され毛利の本拠・安芸吉田近くで幽閉される。

毛利氏が関ヶ原敗戦で防長二州に押し込められた際、尼子兄弟は萩に近い阿武郡奈古で1292石を給された。その姓は久佐(くざ)、更に佐々木と改め近代に至ったが昭和になって断絶したという。

・尼子氏の居城・月山富田城には厚狭毛利家初代・毛利元康も城将として在城した歴史がある。

🔘この本のお蔭で少なくとも尼子氏の末裔が山口県に連綿と続いていたことが分かった。

🔘昨日夕方同じ施設に入居の方から虹が出ていると教えられた。

大型の虹がちょうど摂津国播磨国の国境を跨いで東の空に浮かんでいて、薄いもうひとつの虹を後方に従えているようにも見え、僅かな時間の後消え去った。虹を見るのは何年ぶりになるのだろうか。

一日一句

 

夕虹が摂津播磨をひと跨ぎ