毛利秀元番外編・幻の串崎城

一昨日山口県厚狭に在住の兄から電話があり世間話のなかで山口県下関市立歴史博物館が企画展「串崎城ー長府に築かれた幻の城」を開催しているとの話があった。

歴史博物館のホームページを見てみると開催期間が7月11日までのようで、また担当されているのが旧知の学芸員の方らしく、観ておきたいのは山々ながら今回は諦めざるを得ないようだ。

毛利氏は関ヶ原の敗戦で中国地方120万石の太守から周防、長門2ヶ国36万石となり萩を居城とする。
この際、国境防衛の最前線に、山陽道安芸国広島に対応する岩国に吉川氏を、山陰道石見国に対応する須佐に益田氏を、さらに九州を睨んで海峡を挟む長府に毛利秀元を置くことになり毛利秀元長府藩公称5万石を立藩した。

この時の長府藩領は下関周辺の旧豊浦郡が中心であったが私のふるさと厚狭(旧山陽町)に属する、山野井村、福田村、大持村、小埴生村も計700石分が長府藩に属した。

毛利秀元は領国経営のため築城を決意してその土地選定を行い、最終的に大内氏重臣内藤氏の居城跡、長府ノ古城山=長府串崎に造作を始める。

この位置は地図で観ると良く分かるが、九州門司岬の対岸に当たる海端にあり、海峡や周防灘を見渡せる水軍城としての性格も持って、関ヶ原直後の動乱期に、小倉の細川氏、福岡の黒田氏など九州を睨んだものである。
また実際に城まで船での出入りが可能な設計になっていたようである。

慶長10年(1605)頃にはかなり築城工事も進み、これに合わせて城から見て北側に現在も残る城下町・長府の再編を行っていたが、元和元年(1615)徳川幕府一国一城令を発布、防長二州は萩城のみが存続を許されることになり直前まで普請が継続していた串崎城も破却され幻の城となってしまった。

毛利秀元は本家毛利輝元の養子として豊臣秀吉から認知されていたが、輝元に実子秀就が誕生したため身を引いた経緯があり、関ヶ原の負け戦に続く第三の挫折とも云える悔しい出来事に違いない。

秀元は豊臣時代から江戸時代初期に掛けて毛利本家を支え続けた重要人物、またふるさと厚狭にゆかりの厚狭毛利家や熊谷家の後ろ楯になった人物で、このブログでも〈毛利秀元①~④〉など折に触れ色々な機会に書いてきた。

◎我が家の横に植えている桔梗が咲き始めた。
f:id:kfujiiasa:20210629134604j:plain
f:id:kfujiiasa:20210629134638j:plain
f:id:kfujiiasa:20210629134717j:plain