江戸時代、萩毛利藩内の山林の立木は自由に伐採することは出来ず、作事などで必要な場合は奉行所の許可を必要とし、特に用木がある山は山廻り役人が監視し盗伐には誅罰が加えられた。
山には藩の公有林である御立(おたて)山、厚狭毛利家等の給領主に預けている御預(おあずかり)山、百姓の共有林である入会(いりあい)山、私有林の合壁(かつべき)山、寺社境内(じしゃけいだい)山等の区別があった。
合壁山や入会山は税の対象でもあった。
弘化4年(1847)厚狭代官所日記に盗伐の事例が書かれている。
3月7日記載の内容
(舟木との境にある)西目峠山の西、厚狭市(あさいち)の庄屋・本多源三郎が担当する地域と藩公有林との境で広瀬村亀鶴と申す者が、(勝手に)松4~5本を伐採した。
厚狭毛利家の検使方一同が内々で見分したところ1~2本は厚狭毛利領内、もう1~2本は藩の公有林と確認出来、何とも済まない事になっている。
この件は本多源三郎より検使方・山縣右仲へ内々で申入れがあったもので、表沙汰になっては亀鶴は勿論、厚狭毛利側、本藩側も相済まないことになるので、双方より山守りを立ち会いさせその松の切り株を堀上させ、役人の目障りにならないように取り繕っておいた。
この一件が表沙汰にならぬよう内々で済ますべく、詳しい経緯、事情を山縣右仲が関係者一同に説明伺い当役迄納得して貰った。
(一般に萩毛利藩で当役と言えば藩政府の最高職だが、この場合は藩の船木宰判・代官所の山方役を指しているのではないかと思われる。)
4月9日記載の内容
先だって広瀬村の亀鶴と申す百姓が西目峠の境目の松を盗み切りしたので閉戸(門戸を閉じて家にこもる)処分とする。
なおかつ銀1枚の過料(罰金)見積を以て厚狭毛利家居館の掃除夫25人役相当として、自身が罷り出て毎月5人役を負担する事にした。
(銀1枚はおよそ現代の価値で53750円相当、そうすると掃除夫の日当を2150円くらいで見積もっていることになる)
☆表沙汰になるとかなり広範囲に累が及ぶ為か、役人挙げて苦心している様が見えてくる。
☆その割に百姓亀鶴の処分が軽いように思われるがこれも表沙汰にしないための苦心の一端かもしれない。
☆過料(罰金)を自身の労役で賄う事が江戸時代も行われていたことが分かる。
☆この件の後始末に奔走した厚狭毛利家臣で検使役(経理関係の役務の点検監査業務)を勤める山縣右仲(やまがたうちゅう)は弘化4年の翌年嘉永元年の分限帳を見ると、
〈高 十壱石 但し九石はこの中に含まれる生涯給付の分で、弘化3年の冬の勲功による。〉
と書かれており前年に目立った働きがあったようで、禄高は低いながら厚狭毛利家のなかでも有能な家臣であったと思える。
◎近所の田植えが終わった田んぼに鴨が食事に来ている。
合鴨農法と言って稲作に合鴨を使って雑草や害虫を食べさせる農法があるが、これは天然の鴨農法だろうか。