天下分け目・関ヶ原合戦の毛利家②

1月21日の続き

以下の内容は、朝日カルチャーセンターでの笠谷講師の講義、下関市立長府歴史博物館からの史料、光成準治著「関ヶ原前夜・西軍大名たちの戦い」やその他の史料を参考に自分なりに整理したものです。

慶長3年(1598)8月豊臣秀吉が死去、これを期に豊臣政権内で次期天下人を目指す徳川家康に連なる側と、これを阻もうとする豊臣政権奉行職等石田三成を軸にする反徳川勢力の対立が激化する。

慶長5年(1600)6月16日豊臣政権内大老筆頭の家康が会津・上杉家討伐に諸大名を引き連れ出陣した隙に石田三成大谷吉継を中心とする勢力(西軍)が挙兵、これを徳川氏や反石田三成勢力(東軍)が東国から引き返して対決する構図になった。

当時の毛利家は中国地方の大半を領有する大大名で豊臣政権内大老の一人で西国を任される立場にあった。
この毛利家に西軍側が強力に働きかけ、同年7月19日当主輝元はこれに応じ西軍の旗頭として大阪城に入った。

毛利家では、毛利の支えで両川(りょうせん)といわれた吉川元春小早川隆景は既に死去、朝鮮出兵に大軍を派遣した痛手に加え内部に、輝元の後継者問題から来る大きな課題を抱えていた。

当初、3代目輝元には子がなく、その為吉川氏や小早川氏の同意のもと毛利元就の4男元清の子秀元を養子にした。
秀元は輝元の後継者として豊臣秀吉に認められ官位も累進した。

その後輝元に嫡子(後の秀就)が誕生、秀元は身を引くことになり、秀元に所領を分けるいわゆる国割(くにわり)が必要になった。
この問題に当初は天下人・秀吉、後に大老筆頭・家康や豊臣政権奉行・石田三成増田長盛等が介入、秀元には最終的に長門国とその他を加えて与えられる事になりこの影響で家臣の知行にも変化が生じた。

この過程で輝元と秀元、更に元春の子・吉川広家、毛利家外交僧・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を含む家臣団にも複雑な対立が残り、毛利家は大きな痛手を被った。

この国割問題や豊臣政権内での争いのなかで輝元は、叔父に当たる厚狭毛利家初代・元康に色々な相談などの書状を出しており、当時輝元は元康を重要な相談相手にしていた事が伺え、これらの書状は厚狭毛利家文書の一部として、私のふるさと厚狭図書館に残されている。

家中にこの様な課題を抱えつつ大阪城に入った毛利輝元は、この時期実質的な豊臣政権最高指導者の立場にあり、西軍旗頭として各地の東軍への対応を進めると共に、西国各地にも毛利軍を派遣し毛利家の私益追求、領土拡大を図っていく。

◎厳しい寒さのなか道端で花を必死に咲かせる野草がある。