天下分け目・関ヶ原合戦の毛利家④

1月26日の続き

前回まで、合戦前段における毛利家内部の対立や西国での毛利家領土拡大を狙った動きを書いてきたが、
今回は当主毛利輝元が西軍の旗頭として大阪城に入った慶長5年(1600)7月19日から関ヶ原で東西両軍が激突した同年9月15日迄の約2ヶ月間の中央に於ける毛利の動きを、1月23日の2回目の記事に記した参考史料をもとに、私の頭の中を整理する意味もあり、時系列で要約してみる。

1、7月15日広島を出陣した毛利輝元は19日に大阪城に入ったが、直前の17日には既に毛利秀元が、上杉討伐に出掛ける前に家康が居住していた大阪城西の丸を占領していた事や、広島から大阪までの行軍スピードからみて、輝元は従来云われているような安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に惑わされて西軍に荷担したのではなく当初から西軍の石田三成などと気脈を通じていたと考えられる。

2、7月23日毛利秀元など、毛利軍は東からの敵を想定して近江国(滋賀県)瀬田に進出、防御陣地の構築などを行う。

3、8月4日瀬田の工事が完了後吉川広家安国寺恵瓊、熊谷元直(当時の毛利家内で熊谷氏が重きを置かれていたことがよく分かる)など諸将は伊勢(三重県)へ進出。

4、8月15日毛利秀元近江国土山に布陣、この後伊勢に向かう。

5、8月20日伊勢国関で毛利軍中、秀元家臣団と毛利家重臣益田元祥(ますだもとよし)家臣団との間で大規模な喧嘩・闘争が発生。ここにも国割問題などからくる家中の軋轢が出てきている。

6、8月25日毛利勢等の西軍、伊勢津城を攻略。

7、9月6日厚狭毛利家初代元康が、西軍から離反した近江国大津城を攻撃する援軍として大阪を出陣、9月15日(関ヶ原本戦の日であり元康等は決戦に間に合わず)大津落城。

8、伊勢から美濃国に転進した毛利軍主力約15000が関ヶ原の東の入り口を抑える南宮山に布陣。

9、9月9日毛利水軍が長駆して尾張国(愛知県)野間・内海を攻撃。

10、9月12日毛利輝元が家臣の益田元祥、他に対して美濃国方面のことは安国寺恵瓊福原広俊と相談するべき等を伝える。

11、9月12日益田元祥から輝元宛に、別に安国寺恵瓊から報告のように西軍内で裏切り離反の噂(雑説)が出ている事を報告している。

12、石田三成から大阪城にいる留守居役・増田長盛に対して毛利輝元の出陣を要請しているが、輝元は動かず。

13、9月13日毛利輝元が再度益田元祥に対して詳細は福原広俊に伝えてあること、安国寺恵瓊と相談するべき事を伝える。

・輝元は関ヶ原方面の自軍の去就を、石田三成に極めて近い安国寺恵瓊と東軍への工作を吉川広家と共に行っている福原広俊の両名に委ねているが、両名とも南宮山の毛利軍中に居り、現地では完全に方向性を失った(股裂き状態)動きになっている。

・本来地位からすると関ヶ原毛利軍の総帥であるべき毛利秀元は国割問題が尾を引き輝元から実質的に実権を剥奪された情況に置かれている。
・決戦前から西軍内部には裏切りの噂がささやかれている。
・最終局面でも輝元は安全な場所である大阪城を動かない。

☆毛利家がこの様にひどくまとまりを欠く状況下、9月15日関ヶ原決戦の日を迎える。


寒い朝、ゴルフ用の耳当て付き帽子と手袋を着けて歩いた。太陽が雲に遮られ、まるで月に見える。奧は二上山