「関ヶ原研究会」

先日の産経新聞に、関ヶ原合戦の地元・岐阜県関ケ原町で新たに「関ヶ原研究会」が設立され、会長に中世史特に戦国時代が専門でTVの歴史番組の常連のひとり小和田哲男氏が就いて、新たな研究の進展を若手に促すということが掲載されていた。

関ヶ原合戦については最近従来の定説を覆すような研究成果が色々と出ており、先日も関ヶ原の戦場の西軍側に巨大な城跡が見つかり、豊臣秀頼を戦場に迎える城だったのではなかったかと取り沙汰されている。

私は毛利氏の地元出身であるだけに、この合戦で毛利の運命が暗転したことに複雑な思いを持っているが、併せて毛利の軍勢が戦わずして終わったことについてその経緯に納得出来ていない面をずっと引きずっている。

①なぜ戦場に於ける毛利軍の総大将・毛利秀元(当主輝元の養子・長府藩祖)は南宮山上で動かず戦わなかったのか?

従来の定説は「ふもとに陣を敷いた先鋒を任されていた吉川広家が、東軍に内通して軍を動かさなかったので山を降りられなかった」と言われていた。

然し最近の研究の中で「大阪城に居る毛利家当主・輝元と秀元は信頼関係が揺らぎ、戦場の指揮は秀元に任されておらず、安国寺恵瓊福原広俊の両名に預けられており、指揮系統が乱れて秀元は動きようがなかった」という説が史料と共に提示されている。

②なぜ西軍総大将となっていた毛利輝元大阪城を動かなかったのか?もし輝元か秀頼が戦場に現れておれば西軍が勝利していた。

従来の定説は「輝元が優柔不断で戦場に出るのを決めかねていた」と言うものであった。

然し最近の研究の中で「輝元はこの戦いは一日で終わるとは考えておらず、その間に西国で毛利の領土を拡げるべく各地に軍を派遣、自家に有利となる結果を待っていた」という説が有力になっている。

いわゆる天下分け目の大一番で参加各家の内情もそれぞれあるはずで、これからも色々な発見や新たな分析が期待される。

私は余り手を拡げず従来どおり毛利の動きに絞ってこれからもフォローを続けて行きたい。

🔘今日の一句

 

アザーンが旅路出迎え冬隣

 

イスラムの礼拝を呼び掛けるアザーンを旅先で聴くと何とも言えない心持ちになる。

🔘近くの施設の花壇、ガザニアかミニヒマワリかその他か絞り切れない。蝶が来ている。