天下分け目・関ヶ原合戦の毛利家⑤

1月29日の続き

慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原盆地の西方にあらかじめ陣を敷いた石田三成等の西軍に対して、東軍主力の福島正則を先鋒とする豊臣系諸大名や徳川家康の部隊が、南宮山麓に陣を敷いた毛利軍の前面を東から進軍、関ヶ原に入った。
この東軍に対して、毛利軍は手出しを全くしないままに通過させた。

関ヶ原東西両軍の配置図(下関歴史博物館特別展資料から転載)

右下南宮山麓に毛利軍が布陣

東軍・福島正則の部隊と西軍・宇喜多秀家部隊の衝突から開戦、(従来激戦の後、裏切りが始まるといわれていたが、現在の歴史学の中では開戦当初から裏切りが始まったと解釈されている)
直ぐに西軍の右翼に陣取る、小早川秀秋が、続いて脇坂、赤座等の小大名が相次いで東軍側に寝返り攻撃に参画、側面と正面に攻撃を受けた西軍は壊乱、敗走をはじめる。

毛利軍は、なす術もなく情況を背後から傍観する形になる。

西軍の敗北が決定した後、南宮山の毛利軍は対東軍への関わり方に応じた形で三軍に別れて戦場を離脱する。
①東軍に通じていた吉川広家福原広俊は東軍・黒田長政等と連絡をとり、指示のもとに近江国(滋賀県)へ。
毛利秀元安国寺恵瓊と共に一揆の攻撃をかわしながら伊吹山から近江八幡山経由、瀬田から大阪城に帰着。
安国寺恵瓊八幡山で秀元と別れ、鞍馬から京に至り潜伏中を東軍に捕縛され後日処刑。

☆同じ西軍に属した薩摩(鹿児島県)の島津義弘は後世「島津の退き口(のきぐち)」と称えられる退却戦で全軍一丸となって敵中を突破、ついに薩摩迄帰り着く。

私は山口県の出身なのでずっと毛利氏に関心を持ち、この関ヶ原についても色々な疑問から書き始めたのだが、ここまで来て正直、あまりの不甲斐なさに段々腹が立ってきた。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という言葉があるが、この言葉そのままに、毛利は関ヶ原で負けるべくして負けた。
それは毛利家にとって、語り継がれたくない負け方といえるのだろう。

◎近所の畑、伊予柑だろうか?