司馬遼太郎さんの随筆に昭和41年の毎日新聞に掲載されたとされる「法斎(ほうさい)の話」というのがある。
阿波国(あわのくに・徳島県)蜂須賀家は25万7千石の国主だが、関ヶ原当時当主・家政は西軍に属したが、敢えて嫡子・至鎮(よししげ)は東軍に属し終始家康に従ったため家は無事であった。
大阪にいた家政は西軍の実情を危ぶみ積極的には動かなかったが、西軍の強い要求に応える形で北陸に小部隊を派遣、その派遣隊長が高木法斎であった。
戦後、蜂須賀家では徳川をはばかり北陸の戦は高木法斎の私戦であるとして、士籍を削り追放した。法斎は蜂須賀家の長久を祈り消息を断った。
実は私の追跡する毛利家にもこれとよく似た、さらに酷い話がある。
関ヶ原の負け戦で中国地方八ヶ国から防長二州に押し込められた毛利家は、その直後大阪の陣が勃発したことで徳川家から動員がかけられ幕府方として大阪城を囲むことになる。
当主・輝元は万が一の保険と秀頼への恩義とからめて、一門筆頭の宍戸元続(ししどもとつぐ)の弟・内藤元盛(ないとうもともり)を佐野道可(さのどうか)と名前を変えて大阪城へ入城させた。
戦後、佐野道可は徳川方に捕まるが、徳川方は佐野道可が毛利に縁があると知り毛利家にわざと処分を委ねる。
輝元は本人に切腹を命じると共に、要求もされていない子息二人も徳川の目をはばかり切腹させた。
当時の毛利家は幕府の視線を意識せざるを得ない状況に有ったとはいえ無惨な結末であった。私は色々な面、例えば関ヶ原の役での優柔不断、家臣の妻を取りあげ側室にしたことなど、毛利元就の後継者で孫になる輝元のことを好きになれないがこの事件もそのひとつである。
【夏燕視線投げ来て旅語る】
🔘施設庭園の桔梗(キキョウ)