天下分け目・関ヶ原合戦の毛利家⑦最終回

毛利家が一発の鉄砲も撃てないまま、中国8ヶ国120万石から周防、長門2ヶ国36万石に押し込められた関ヶ原合戦の経過を書いてきたが、ここまできて私なりにその敗戦の要因を整理し直すと。

1、まず当時の毛利家、当主輝元を始め一族に、近い将来への共通の目的意識、または目標が無かった。
120万石まで膨らんだ所領で秀吉亡き後、現状維持なのか、天下に号令するのか、徳川家康との関係をどうするか等々一族内で合意形成が出来ていない。

2、輝元の後継問題が尾を引き、家中が利害関係で分裂状態で指揮命令系統が乱れ、主だったものが自分の思惑や、異なった指示で動いてしまっている。

3、1項の影響で、当主が西軍の旗頭として立ったにもかかわらず中央に軍を集中せず、自領拡大のため軍を分散、
この為中央での決戦に全く主導権が握れてない。

4、当主は後方の安全地帯である大阪城にいて、前線部隊には和戦両様とも思える指示を出しており、指揮系統が全く確立できていない。
三代目のひ弱さがもろに出ている。

5、もし毛利家が天下に号令できた可能性が確実に有ったとすると、毛利輝元大阪城に入った後、豊臣秀頼を引きずって(無理な場合は豊臣家の馬印(うまじるし)だけでも)関ヶ原に同行し陣頭に立つことであったろうと思われる。

6、徳川家康が何より恐れていたのは、豊臣秀頼が西軍の立場で戦場に現れる事で、もしそうなると豊臣家ゆかりの東軍諸将は戦意を失うはずで、その為徳川の本軍である4万人の息子・秀忠大部隊の戦場到着を待たずに急ぎ決戦に踏み切った経過がある。

5、輝元の近くには参謀役も不在で、深く考えるべき対徳川家康戦略が不充分で、大阪城から撤退の場面も含み、家康の謀計に全く太刀打ち出来ていない。

等々で、自分自身はふるさとの縁から「毛利びいき」を自称しているが、史料を深く読み込んで行くにつれ、いわば「敗け戦の教科書」を見ているような気がしてきた。

また私は長い間、関ヶ原合戦の毛利家の敗因は、一族・吉川広家の東軍への内通にあると思ってきたが、最近の史料をもとに、状況を深く見つめ直すと、明らかに主犯は当主の輝元であると考えるようになってきた。

この時の屈辱が270年後毛利家・長州藩明治維新の原動力のひとつになるのだが、「人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま)」を長期スパンのなか、地でいった話である。

◎近所の軒下、鉢植えの梅、春が近いことを想わせる。
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