1月23日の続き
関ヶ原合戦は美濃国(岐阜県)で行われた大会戦で、どうしてもその場所の戦いがクローズアップされるが、実際には日本国中で同時期に中央の争いが波及した形で大小の戦いがあった。
結果的に見ると関ヶ原ではたった半日で決着がついてしまっているが、この時期一部を除いてほとんどの武将は、この争いが長引くものと考え有力武将の中には自領土拡大に動き出すものがいた。九州の黒田氏、奥州の伊達氏、上杉氏等である。
これらの有力大名と同じく、毛利家当主輝元が西軍の旗頭として大阪城に入った時を前後して、毛利軍は各地に軍事行動を起こしていく。
1、東軍に荷担する可能性の高い蜂須賀家の治める阿波国(徳島県)の占領
2、東軍、藤堂高虎、加藤嘉明が所領とする伊予国(愛媛県)に大規模侵略行動
3、豊後国(大分県)の旧領主大友氏を毛利が支援する形での東軍細川氏の領内へ侵攻
4、関門海峡を押し渡り九州の入り口にある門司城、小倉城を占領
この時の毛利輝元の狙いを歴史家・光成準治氏は著書「関ヶ原前夜・西軍大名の戦い」の中で
1、当時毛利氏が抱えていた、国割問題や朝鮮出兵などからくる家臣団統制の緩み、財政悪化、村落荒廃に対し他国を得ることで一挙に解決できる。
2、阿波~讃岐~伊予~豊前・豊後ラインを制圧することによる、かつて失った瀬戸内制海権の回復と石見銀山輸出など東アジア貿易進出による利益獲得。
等があったと解説されている。
この様な自家の利益を優先させる地方での動きは、必然的に中央での雌雄を決する戦いの戦力を自ら分散低下させることになって行く。
◎八尾空港を飛び立った直後の小型飛行機、奥に見える山が左手葛城山、右が大阪府最高峰(標高1125m)の金剛山
(昨日夕方の散歩で撮影)