ブラタモリ・山口県特集(最終回)③錦帯橋と岩国

今回はメインが山口県岩国の錦帯橋、木製のアーチ橋でその美しさや耐久性で余りにも有名な江戸時代からの橋である。

番組では錦帯橋の構造から洪水などに対する耐久性の強さが解き明かされ、機能美として際立っていることが説明される。

その後この橋が、岩国を領した毛利一門・吉川家の武士達の登城通勤ルート上にあることや、吉川家が岩国を領することになった経緯、岩国城が築城後すぐに取り壊されたことまで説明された。

このシリーズ②で説明した通り、関ヶ原戦後毛利家が周防長門いわゆる防長二州を治めることになった際、主城を萩に置くことになった。

当時当主・毛利輝元を支える毛利家の二本柱は毛利秀元(輝元の従兄弟、輝元に嫡子・秀就が誕生するまで養嗣子)と吉川広家(輝元の従兄弟)で、両者は関ヶ原現地での総大将と先鋒大将で、戦わずして負けた経緯から互いに戦後も反目していた。

また関ヶ原で敵であった有力大名・福島正則が毛利が去った後の広島へ、細川忠興豊前(福岡県東部及び大分県北部、後に肥後へ)、黒田長政が筑紫(福岡県東部を除く全域)に配されており、潜在敵国であるこれら三大名などに備える必要があった。

この為輝元は秀元を長府に配し関門海峡九州をにらんで串崎城を築かせ、吉川広家を岩国に入れて山陽道を押さえる地に岩国城を築かせた。

地図を見ると一目瞭然だが萩、長府、岩国は防長二州(山口県)で大きなトライアングルを形成し、この三角形の内側に厚狭毛利家を始めとする一門家を各地に置いて領国を統治しようとした。

しかし番組でも触れられていたが、幕府は慶長20年(1615)突如「一国一城令」を発布、長府串崎城と岩国城は、完成を間近に控え自ら破却せざるを得なくなる。このときの毛利秀元吉川広家の怒りがそれぞれに記録されている。

🔘今日の一句

 

関ヶ原負けが身に染む萩の風

 

🔘介護棟屋上庭園のニチニチソウ(日々草)