ブラタモリ・山口県特集②萩の街

これは2018年に放送されたものの再放送らしく、タモリさんに同伴するのは今はニュースが本業になっている  林田理沙アナウンサー。

萩の地形や地質などから解き起こし、なぜ現在まで古い武家屋敷群が残り世界遺産・「明治日本の産業革命遺産」の一部になったかが順次説明されていく。

長州藩毛利家と言えば萩であることは誰でも知っているが、毛利家が関ヶ原の戦いで敗れ中国10ヶ国120万石から周防国長門国の36.9万石に押し込められた際、その本拠をどこに置くかは毛利家にとって今後の領内を統制するうえで極めて重要な課題であった。

一方関ヶ原に勝利してこれから日本全国を治めようとする徳川政権でも外様の大藩がどこに城を築くかということは統治の上で重要な関心事であり、その意向は毛利をはじめ大名家にとって無視できないものがあった。

当時の毛利家当主・輝元は自らの居城候補地を防府の桑山(くわのやま)、山口の高峯山(こうのみねやま)、萩の指月山(しずきやま)の三ヶ所として選定し家臣に命じて幕府重臣本多正信(「どうする家康」では松山ケンイチが演じる)等と折衝させた。

輝元の意中は地形、利便性、領地の中央に位置することなどから第一が桑山、次が高峯山だったようであるが、幕府側の人物は(家康の意向を踏まえ)一致して萩を推した。

このときの公式な理由は「要害の地で非常時の籠城に有利である」ことにあったと云われるが、本心はより僻遠の地に追いやり毛利家内部の遠心力を期待したのかも知れない。

関ヶ原直後の毛利家は幕府の意向に逆らってまで城地を決めることなどとても無理なことであった。

自らの居城を自らの意思で決められないこの一連の経過も、幕末長州藩の倒幕活動の下地作りになっていると想像される。

もし此のとき桑山か高峯山に決まっていたら長州藩ではなく周防国(すおうのくに)・防州藩となっていた。

🔘今日の一句

 

錆目立つコンビナートに鰯雲

 

🔘施設の庭、シャリンバイ(車輪梅)の実